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明日も、同じ帰り道を歩こう

作者:
掲載日:2025/12/28

 卒業式の前日だというのに、空はいつもみたいに青くて、校舎の窓はいつもみたいに光っていた。

 制服の胸元に付いた小さな校章を指でなぞる。これも、明日で終わり。

 門を出て、通学路――ではなく、私にとっては「帰り道」を歩く。

 部活の声も、下駄箱の雑談も、もう背中の方で遠くなる。

 残るのは、靴底がアスファルトを擦る音と、少し冷たい風。

 私はこの道が好きだった。

 曲がり角の前にある古い自販機。

 左側だけ妙に低いガードレール。

 途中に一軒だけ、いつも花が咲いている家。

 全部、変わらないから。

 ――変わらないから、安心する。

 なのに今日は、変わらないものがひとつひとつ、やけに胸に刺さる。

 だって明日、私はこの道を「高校生」として歩かない。

 「……明日も、同じ帰り道を歩こう」

 口に出してみると、不思議と喉が熱くなった。

 合言葉みたいに、昔から何度も言われて、何度も言ってきた言葉。

 私は歩きながら、その言葉のいちばん最初の記憶へ、静かに落ちていく。

 小学生のとき、私はいつもランドセルの肩紐をぎゅっと握って歩いていた。

 話しかけるのが苦手で、友だちの輪に入るのも下手で、帰り道がいちばん緊張する時間だった。

 でも、ある日。

 「白石、今日、一緒に帰ろ」

 背の高い男の子が、突然私の隣に来た。

 あおいくん。体育の時間だけ急に声が大きくなる、変な子。

 「……う、うん」

 私が頷くと、蒼くんはランドセルを軽く揺らしながら言った。

 「ここ、日陰が多いから涼しいんだよ。帰り道、好き?」

 好き、なんて考えたこともなかった。

 ただ「家に帰る道」だったから。

 「……わかんない」

 正直に言うと、蒼くんは笑った。

 「じゃあさ。好きになれよ。帰り道。毎日あるんだし」

 その日から、私たちはよく一緒に帰った。

 私が黙っていても、蒼くんは勝手に喋った。

 好きな給食の話、嫌いな先生の話、見つけた虫の話。

 どうでもいいことばかり。けれど、不思議と安心できた。

 雨の日もあった。

 傘を忘れた蒼くんが、昇降口で途方に暮れていた。

 「……あ、あの……一緒に入る?」

 私が傘を差し出すと、蒼くんは一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに目尻を下げた。

 「ありがと。白石って、優しいんだな」

 私の傘は小さくて、二人で入ると肩が濡れた。

 蒼くんの制服の袖が、少しだけ私に触れて、心臓が跳ねた。

 そのとき蒼くんが、雨音の中で言った。

 「なあ。明日も、同じ帰り道を歩こうな」

 「……うん」

 私は、意味もわからないまま頷いた。

 ただ、その言葉が魔法みたいで、濡れた肩の冷たさまで嬉しく感じた。

 その夜、私は初めて日記をつけた。

 作文用紙の余白に、鉛筆でこっそり書く。

『あしたも、同じかえりみちをあるきますように』

 中学生になって、制服が変わって、教室も変わって、世界は少し広がった。

 私は少しだけ喋れるようになった。

 それでも、蒼くんの隣にいるときがいちばん落ち着いた。

 ……はずだった。

 一年生の途中から、蒼くんはサッカー部で忙しくなった。

 帰りは遅く、私は図書室に残ることが増えた。

 同じ帰り道を歩く日が、いつの間にか減っていった。

 ある日、たまたま校門で蒼くんと会った。

 汗の匂いがして、髪が少し伸びていた。

 「白石、久しぶり」

 「……久しぶり」

 なんだか照れくさくて、私は視線を落とした。

 蒼くんは笑って、少しだけ言いにくそうに言った。

 「転校、するんだ。来月」

 足元の石ころが、急に重くなった気がした。

 「え……」

 「親の仕事でさ。遠い。……でも、まあ、サッカー続けるし」

 明るく言うのに、蒼くんの声は少し震えていた。

 私は言葉が見つからなくて、ただ指先を握りしめた。

 最後の日。

 夕焼けがやけに赤くて、信号が変わるのが遅い気がして、全部が引き延ばされたみたいだった。

 自販機の前で、蒼くんが立ち止まる。

 あの、小学生のころからある自販機。

 「白石」

 「……なに?」

 蒼くんは、一瞬だけ口を結んでから、笑った。

 「またな。……明日も、同じ帰り道を歩こう」

 「……うん」

 私は頷いて、笑おうとした。

 でも喉が詰まって、笑えなかった。

 翌日。

 蒼くんはいなかった。

 それでも私は、同じ帰り道を歩いた。

 一人で。

 自販機の前を通ると、胸が痛くなって、息を止めた。

 あの言葉は、約束だったのに。

 明日も、って言ったのに。

 ――明日は、来なかった。

 高校に入って、私はまた少し変わった。

 クラスの友だちと放課後に寄り道もしたし、文化祭では実行委員もやった。

 恋の話題で笑ったり、深夜にメッセージを送り合ったりもした。

 でも、誰かに「好き」って言い切れるほどの気持ちは、どこにもなかった。

 私にはずっと、帰り道にぽっかり空いた場所がある気がした。

 「ひなた、今日さ、帰りカフェ寄らない?」

 友だちが誘ってくれる。

 私は笑って頷いて、楽しく話して、ちゃんと青春をしているふりをした。

 けれど家に帰ると、机の引き出しの奥にある古いノートを、つい探してしまう。

 小学生のころに書いた日記。

 作文用紙の余白が、鉛筆の線で埋まっている。

『あしたも、同じかえりみちをあるきますように』

 何度も見たはずの一文が、今日は刺さった。

 私はページをめくる。

 幼い字の隣に、少しだけ上手になった字が重なっている。

 中学生のとき、泣きながら書いたらしい、滲んだ跡。

『明日も、同じ帰り道を歩こうって、言ったのに』

 私は息を吸う。

 ページの端が、少しだけ震えた。

 そして、次のページ。

 高校一年の夏に書いたらしい、私はこんなことを書いていた。

『明日が来ないこともある。

 でも、歩けなくなるわけじゃない。

 帰り道は、私の足で進むものだ』

 ……知らなかった。

 自分が、こんなふうに書いていたこと。

 私は日記を閉じて、鞄に入れた。

 卒業式の前日。

 私はそれを持って、いつもの帰り道を歩いている。

 自販機の前まで来ると、足が勝手に止まった。

 小学生の私が、蒼くんと肩を寄せた場所。

 中学生の私が、言葉に縋って泣きたくなった場所。

 私は日記を取り出して、ページを開いた。

 もう鉛筆の線は薄い。

 でも、確かにここに、私の「明日」が積み重なっている。

 「……明日も、同じ帰り道を歩こう」

 私はもう一度、口にした。

 その瞬間、ようやくわかった。

 あの言葉は、「ずっと一緒にいよう」じゃなかったんだ。

 「明日も、同じ道を歩けるよ」って――

 たとえ隣に誰かがいなくても、私は歩ける、っていう、励ましだったんだ。

 蒼くんは、私に未来を渡してくれていた。

 別れの前に、置いていってくれた。

 胸が熱くなって、視界がにじむ。

 私は日記を抱きしめたまま、次の曲がり角へ向かった。

 そこで。

 「……白石?」

 聞き慣れた声が、風に混じって届いた。

 思わず顔を上げる。

 曲がり角の向こう、夕焼けの中に、背の高い影が立っていた。

 少しだけ大人になった顔。

 でも、笑い方は変わっていない。

 「……蒼、くん」

 名前が、喉からこぼれた瞬間、泣きそうになった。

 蒼くんは照れくさそうに頭をかいて、笑った。

 「久しぶり。……卒業、おめでとう」

 「……なんで、ここに……」

 「こっちに用事があってさ。たまたま……って言いたいけど、違う」

 蒼くんは一歩近づいて、私の手にある日記を見て、目を細めた。

 「それ、まだ持ってたんだ」

 私は頷く。

 言葉が出ない。

 蒼くんは息を吸って、昔みたいに軽く言った。

 「なあ。明日も、同じ帰り道を歩こう」

 その瞬間、私の中の何かがほどけた。

 怒りも、寂しさも、諦めも、ぜんぶ溶けて、ただ一つの感情だけが残る。

 「……うん」

 私たちは並んで歩き出した。

 同じ帰り道。

 自販機を過ぎ、低いガードレールの横を通り、花の家の前を通る。

 沈黙が、怖くない。

 風が冷たいのに、心はあたたかい。

 私は横目で蒼くんを見た。

 「……ねえ」

 「ん?」

 「昔の“明日も”って、どういう意味だったの?」

 蒼くんは少しだけ困った顔をして、それから真面目に言った。

 「……本当はさ、俺、転校のこと知ってたんだ。だいぶ前から」

 胸が、きゅっとなる。

 「白石って、変わらないものが好きだろ」

 私は頷く。

 蒼くんは、視線を前に向けたまま続けた。

 「だから、変わるって言ったら、お前、固まると思って。

 『明日も』って言葉に、縋りたくなると思って」

 「……うん」

 「でも、縋らせたかったわけじゃない。

 ……ちゃんと歩けるって、知ってほしかった」

 私は喉の奥が痛くなって、言葉が出ない。

 蒼くんは歩幅を少しだけ緩めた。

 「俺がいなくても、白石は歩ける。

 同じ道でも、違う明日でも。

 ……そういう意味で、言った。……つもりだった」

 私は、笑った。

 泣きながら。

 「……蒼くん、ずるい」

 「え?」

 「そんなの、もっと早く言ってよ」

 蒼くんは困ったように笑って、それから小さく「ごめん」と言った。

 曲がり角が見えてくる。

 ここを曲がれば、私の家はもうすぐ。

 この角は昔から、私たちの「別れ」の場所だった。

 蒼くんが、そこで立ち止まった。

 「ここまででいい」

 「……え」

 蒼くんは、私の驚いた顔を見て、穏やかに言った。

 「最後まで一緒に帰ったらさ、たぶん俺、また“明日”って言っちゃう」

 胸が、また熱くなる。

 蒼くんは、少しだけ笑って言った。

 「白石。明日からも、歩けよ」

 私は日記を抱きしめて、頷いた。

 頷くしかなかった。

 「……うん。歩く」

 「うん」

 蒼くんは、夕焼けの中で軽く手を振った。

 私は一歩踏み出す。

 二歩、三歩。

 振り返りたくなるのを堪えて、前を見る。

 同じ帰り道。

 でも今日は、違う。

 私は知っている。

 隣に誰かがいない明日も、私は歩ける。

 そして、歩き続けた先で、また誰かと並べる日が来る。

 日記のページが、鞄の中でかすかに鳴った気がした。

 ――明日も、同じ帰り道を歩こう。

 その言葉はもう、約束の形を変えて、私の中で灯る。

 明日も、私は同じ帰り道を歩く。

 ――それはもう、一人でも、寂しくない道だった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

この物語は、「約束」という言葉が持つ形の変化をテーマにしています。

子どものころは「一緒にいること」そのものが約束で、

大人になるにつれて、「それぞれが歩いていくこと」も

同じくらい大切な約束になるのだと思います。

「明日も、同じ帰り道を歩こう」という言葉は、

誰かに縋るための言葉ではなく、

自分の足で進むための言葉だった――

そう気づけたとき、ひなたは本当の意味で前に進めました。

読んでくださったあなたにも、

思い出の帰り道や、胸に残っている言葉があれば幸いです。

少しでも心に残るものがありましたら、

評価や感想をいただけると、とても励みになります。

ありがとうございました。

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