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その夜。
外はすっかり静まり返り、街に柔らかな夜風が流れていた。
玉藻は、着替えを終え、ベッドの縁に腰を下ろしたところだった。
デートの余韻がまだ胸の奥に残っていて、ふと頬がゆるむ。
そこへ――スマホが小さく震えた。
画面には、康親の名前。
心臓が一瞬、跳ねる。
恐る恐るタップすると、短い文面が表示された。
今日は本当にありがとう。
岸本玲奈のことは、もう心配しなくてよい。
あの娘は、これ以上あなたに関わることはない。
安心して眠ってください。
玉藻は、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。
――康親さん……私の心配をしてくれていたんだ。
安堵と、じんわりと満ちる幸福が、胸の中に波のように広がる。
震える指で返信する。
こちらこそ、今日はありがとうございました。
本当に……楽しかったです。
そして、色々とお気遣いくださり、感謝しています。
送信を押した瞬間、胸の奥が甘く締めつけられた。
「……はぁ……幸せ……」
ぽつりとこぼれる言葉。
サクラや志保が聞いたら冷やかされるに違いない。
玉藻はスマホを胸に抱き、そっと目を閉じた。
ほんのりと紅潮した頬のまま、静かな幸福を噛みしめるように。
その笑みは、誰にも見られていない。
けれど、しばらくのあいだ消えることはなかった。
夜の神社は、人の気配が消えると途端に空気が冷たくなる。
井戸の前に潜んでいた 藁男・ヒイラギ・ブードゥー人形の三体は、異様な静けさを感じ取っていた。
その静寂を破ったのは、玲奈の笑い声。
そして――玲奈が井戸へと飛び込む気配。
しばらく、井戸の底からは何の反応もない。
ただ、風が木々を揺らす音だけが響いている。
ブードゥー人形が、ぽつりと呟いた。
「……消えたわね。気配がまったくない。」
ヒイラギは身体をくねらせる。
「行った……あれは、もう戻ってこない。
どこか“違うところ”へ落ちた。」
藁男が腕を組み、低くうなった。
「康親さんが戻っていくのを追いかけたが、
あの女には時代を選ぶ力がない。
……まあ、結果は見えていたな。」
三体は井戸を見つめて黙っていた。
そこには勝ち誇るような雰囲気はなく、ただ、冷静に「終わり」を確認するだけ。
やがて、藁男が背中を向けた。
「任務完了だ。
玉藻さんに、これ以上の害意は及ばん。」
ヒイラギもすべるように藁男の後ろへ続く。
ブードゥー人形は井戸に一度だけ振り返り、
「……あの女、自分で破滅に飛び込んだだけよ」と
ぽそりと呟くと、三体は暗い参道を並んで歩き始めた。
夜の京都を抜け、
玉藻たちが暮らす家へ戻る道のりは静かだった。
サクラの部屋の窓から灯りが漏れている。
三体が入っていくと――
サクラが待ち構えていたように顔を上げる。
「おかえりっす。
……どうなった?」
ブードゥー人形がふわりと肩をすくめた。
「安心していい。
岸本玲奈は、もう玉藻さんには近づけない。」
サクラはほっと息をつき、
ヒイラギは布団の上へするりと移動してとぐろを巻く。
藁男が腰を下ろしながら言った。
「……さて俺たちの仕事も、ひと段落だな。」
その言葉に、部屋の空気が柔らかく揺れた。
三体の守り手たちは、ようやく静かな夜を取り戻したのだった。
岸本玲奈は――生きていた。
落ちていった先は、彼女の知るどの時代とも違う。
風景は古めかしいのに、聞こえてくる言葉は現代と似ている。
文明は中途半端に進化し、街には人の怨念が濃霧のように漂っていた。
そこに暮らす人々は、どこか奇妙に“似ていた”。
誰もが、誰かを恨み、
誰もが、誰かを呪い、
自分の不幸を他人のせいにして生きている。
――そう、“岸本玲奈のような人間”ばかりだった。
「ここ……すごく、居心地いい……」
玲奈はすぐに打ち解け、
気づけば同じ気質の仲間に囲まれていた。
それは、まるで腐った果実がひとつの籠に集められてゆくように、
自然で、必然的な結びつきだった。
普通の人間なら怯えて発狂するような、
怨念と悪意が充満した地獄のような世界。
だが――玲奈にとっては違った。
やさしい人たちの輪に入れず、
浮き続け、嫉妬と不満に心を焼かれていたあの日々。
その孤独が、この世界では一切ない。
「ここなら……私、普通でいられるんだ」
玲奈は笑った。
その笑顔は、これまででいちばん自然で、幸福そうだった。
“異常な世界”は、彼女にとっては“安らげる居場所”だった。
そして、玲奈は新たな仲間たちと共に、
今日も誰かを呪い、誰かを妬み、
互いに慰めあいながら――幸せな暮らしを送り続ける。
お読みいただきありがとうございました。




