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 康親が古井戸の底へ身を沈めた瞬間、周囲の景色は淡い光に包まれ、空気が一気に重く、湿り気を帯びる。

 やがて光が静かに収まり、康親は見慣れた京の夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。


「……戻ってきたな」


 遠くで虫の声が響き、灯火ゆれる町並みが、彼を迎えるように静かに広がる。

 その直後、背後から柔らかな声がかかった。


「お帰りなさいませ、康親様」


 振り返ると、薄暗い灯りの中に立つ徳子の姿があった。

 深い群青の狩衣姿で、少しだけ安堵したような微笑みを浮かべている。


「ただいま戻った、徳子。……待っていてくれたのか?」


「はい。と言っても、半刻ほどですが」


 康親は小さく笑い、表情を緩めた。

 井戸は表向き“ただの古井戸”に見える。

 しかし、ここは賢者や陰陽師でも容易に扱えぬ時の淵であった。


 康親が玉藻のいる時代へ行けるようになるまで、数えきれない失敗を繰り返した。

 思い描く「玉藻のいる時代」を何度念じようと、最初はまったく別の時代へ放り出されたこともあった。


 初めて試みたとき――。


「……応仁の乱の、まっただ中だったな」


 炎に包まれた都、飛び交う矢、耳を劈く怒号。

 康親でさえ足がすくむほどの地獄絵図だった。


 それほどまでに、“自分の行きたい時代へ行く”というのは至難の業だった。


 だからこそ、思いは強まり、鍛錬を重ね、それでも届かず、それでも繰り返し……。

 ようやく、ようやく、玉藻のいる現代へ辿り着けるようになったのだ。


「それほどの準備と力が必要なのだ。……並の人間に扱えるものではない」


 康親はふっと眉をひそめた。


「――まして、岸本玲奈のように、何の力も持たぬ娘が」


 徳子も同じく表情を曇らせる。


「もしや……誰か追ってきたのですか?」


「おそらくな。女の声が聞こえた」


 井戸の“道筋”は、望む時代へ一直線に通じているわけではない。

 さまざまな時間の層が絡み合い、揺れ動き、常に裂け目を孕んでいる。

 少しでも意志が弱ければ、少しでも心が乱れれば――。


「そのまま、時の裂け目に吸い込まれる」


 康親の声はひどく静かで、深かった。


 井戸に落ちた瞬間、玲奈の身体は確かに平安に続くはずだった“ひと筋の道”に触れた。

 しかし、その願いは“恋心”ではなく、“歪んだ執着”だった。

 時の淵はそれを拒む。


 ――きゃあああああああっ!!


 玲奈の叫びは、裂けた時空の隙間へ吸い込まれていく。

 落ちていくほどに、光はねじれ、景色は破れ、上下もわからない。


 道からわずかに外れただけで、行き着く先は無限にある。

 未来、過去、歴史に記されぬ時代、あるいは時代と呼べぬ“奈落”。


 どこか別の世界へ落ちていく。

 そこがどれほど暗く、どれほど残酷な場所か、誰にもわからない。


 康親は静かに息を吐いた。


「……彼女は、もう戻っては来られまい」


 徳子はそっと首を垂れた。


「そうなる運命だったのでしょうね」


 井戸は再び静かに、ただ闇の底をたたえているだけだった。

お読みいただきありがとうございました。

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