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 夕暮れの街に、オレンジ色の光がゆっくりと落ちていく。

 康親は静かに玉藻の自宅前まで歩み、立ち止まった。


「今日は付き合ってくれて、ありがとう」


 玉藻は少し頬を赤らめ、名残惜しさを隠すように微笑む。


「こちらこそ……素敵な時間をありがとうございました」


 康親はやわらかく微笑むと、軽く手を振りながら立ち去る。

 玉藻はその後ろ姿を見送り、まだ心臓がドキドキしているのを感じた。


 ――今日のデートの余韻が、胸の奥でじんわりと温かく広がる。


「お姉ちゃん、顔赤いっすよ?」


 背後からサクラの声がした。

 振り向くと、妹はにやりと笑っている。


「っ……! な、なんでもないわよっ!」


 玉藻は慌てて顔を手で押さえる。

 サクラの冷やかしに、心の中で小さくため息をつく。

 だが、それもまた、今日一日の幸福な余韻の一部に思えて、思わず微笑んでしまった。


 夕暮れの街を抜け、康親と玉藻が別れた後、岸本玲奈は影のように康親を尾行していた。

 人通りのある通りでも、康親が歩くと、自然と人々の目が集まる。

 背筋の伸びた立ち姿、静かに漂う気品――誰もが立ち止まり、思わず振り返るほどだった。


(……この男、なに? ただ立っているだけで、人を圧倒する力がある……)


 玲奈の胸がざわつく。嫉妬、羨望、そしてどうしようもない執着。

(絶対、手に入れてみせる……! 玉藻なんかに渡さない……!)


 康親は夜の神社に向かって歩き続ける。

 灯りもまばらな境内を抜け、裏手の茂みをかすめ、古井戸の前で立ち止まった。


 康親は人の気配――玲奈の存在を認めていた。

 しかし、康親は振り返らない。

 目の前にある井戸だけを見据え、静かに息を整える。


「……さて……家に帰るか……」


 その声は、風に溶けるように小さいが、岸本玲奈に聞こえる大きさだった。


 康親は一歩踏み出し、井戸の闇へと吸い込まれるように姿を消していく。


 茂みに隠れていた岸本玲奈は、目を大きく見開く。

(……井戸……あの男が……あの闇に吸い込まれていく……)


 視界に映る井戸の縁。闇の中へ吸い込まれる康親の姿。

 普通の人間なら足がすくみ、呼吸を忘れるような光景だ。

 玲奈の心臓は異常な速さで打ち、全身の血が逆流するような感覚に陥る。


「……ああ……!」


 唇から小さな声が漏れた。

 恐怖、そして得体の知れない嫉妬が、胸を押し潰す。


 しかし、男はもうそこにはいない。

 闇に溶け込むように、消えてしまったのだ。


 玲奈は立ち尽くす。

 微かな香の香りだけが、夜の神社に静かに残っていた。


 目の前の井戸は、ただ黒く、深く、何もかもを飲み込むように見える。

 玲奈の指先がわずかに震え、握りしめた拳から力が漏れる。

(絶対……いつか、あの男を……!)


 井戸の前にしゃがみ込み、しばらく呆然と暗い穴を見つめていた岸本玲奈。

 月の光が、静まり返った境内を白く照らし、井戸の縁だけが不気味に光る。


 だが――ふいに、玲奈の肩が小さく震え、それはやがて声を漏らす震動に変わっていった。


「ふ……ふふ……ふふふ……」


 そして、ついには抑えきれず、大きな声で笑い出す。


「そういうこと……そういうことなのね……!」


 その瞳は常軌を逸した輝きを宿し、井戸の闇をまるで恋人を見るように見つめた。


「私を……誘ってるんだわ……!」


 井戸の底へ消えた康親の姿が、玲奈にはまるで“後を追え”と手招きしているように思えた。


(私の気持ちを試してる……そうよ。飛び込んでみろって。

 どれだけ私が本気なのか、知りたいんだわ……)


 玲奈の妄想は、熱に浮かされたように膨れ上がっていく。


「玉藻には……こんなことしないもの」


 康親が玉藻を送っただけで終わった光景が脳裏に浮かぶ。

 あれはただのデートの締めくくり――それ以上ではなかった。


「でも私は違うの……!」


 息を荒くしながら、井戸の縁へそっと手を置く。


「だって……自分の“隠れ家”に連れていくなんて……好きじゃなきゃ、そんなこと……!」


 夜風が境内を吹き抜ける。

 しかし玲奈には、それが康親の囁きに聞こえた。


 ――来い。


「……行くわ。あなたのところへ……!」


 自分にだけ許された特別な合図だと信じ込んでいた。

 井戸へ飛び込むことこそが、愛の証だと。


「待っててね……!」


 玲奈は両手を広げ、闇の底へ愛おしいものに飛び込むように身を投げた。


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