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「今日は私が案内したい場所があるんです。」
「うむ。玉藻が選んだ場所か……楽しみだ」
爽やか笑顔で言われて、心臓が死ぬほど跳ねた。
反則だ、この人。
今宮神社で参拝を終え、裏手の鳥居をくぐると、餅を焼く煙が風に混じった。
視線を向けると、そこには平安の面影をそのまま残したかのような小さな和菓子屋が佇んでいた。時代の流れから取り残されたように静かで、昔と変わらぬ姿でそこに在った。
平安時代から続くという老舗和菓子店。
「ここ……!」
康親が息を呑んだ。
本当に驚いた時の人間は、あんなに目が開くのかと思うほど。
「このお店、そんなに有名なんですか?」
「有名というより……昔、よく通っていた。まさかまだ続いているとは思わなかった
玉藻、入ろう。……少し、息が乱れそうだ」
玉藻は黙って頷いた。
店内は、餅を焼く香りが漂っていた。
二人は奥の席に座ると、白味噌を使った名物菓子が運ばれてくる。
「……これだ」
康親はそっと菓子を手に取り、噛みしめた。
次の瞬間、彼の表情がふわっとほどけた。
「変わっていない……。味も香りも、あの頃のまま……」
「よかった……喜んでもらえて」
玉藻の胸は温かく、じんわりと締めつけられるようだった。
「ありがとう、玉藻。こんなところに連れてきてくれるなんて……」
ほうじ茶の湯気が静かに揺れ、店の外からは神社の鈴の音が微かに響く。
人通りの少ない参道の端。朱色の鳥居の影に身を潜め、岸本玲奈はじっと二人の後ろ姿を見つめていた。
玉藻と並んで歩く、あの男。
柔らかく笑い、玉藻の歩幅にさりげなく合わせて歩くその姿。
身にまとった気品は、まるで彼の周りの空気だけ質が違うように見える。
(……なに、このレベルの男)
玲奈の喉がゴクリと鳴った。
隼人は確かに悪くなかった。顔もいいし、金もある。信者に囲まれていた教祖時代、彼の存在は“ちょっといいおもちゃ”くらいの位置にいた。
――けれど、今、目の前にいる男は違った。
隼人とは比較にならない。
顔立ち、雰囲気、佇まい……すべてが桁違い。
まるで王族でも見ているような、そんな圧倒的な“格の違い”。
(……こんな男を、玉藻ごときが?)
胸の奥がじりじりと焼けるように熱くなる。
喉の奥で、怒りとも羨望ともつかぬ感情が沸騰していた。
(あの女、隼人さんと付き合ってるんじゃなかったの? なのに――別の男?)
玲奈の脳内で、妄想と誤解が一気に膨れ上がる。
(浮気してるじゃない……! 許せない……!)
爪が手のひらに食い込み、痛みすら気づかない。
(というか、なんで玉藻なの? あの地味な子に、男が二人も?)
嫉妬が視界を赤く染める。
(でも……あの男なら、隼人よりずっと価値がある)
ぞくり、と背筋に冷たい快感が走った。
(あの人を手に入れられたら……今度こそ、私は完璧になれる)
玲奈の目に、光が宿る。
(奪えばいいのよ。玉藻から。どうせ似合ってないんだから)
玲奈は足音を消し、ゆっくりと二人を尾行し始めた。
玉藻と康親は、神社の境内を歩いていた。
しかし、どちらの表情もふと陰りが差す。
「……玉藻、感じているか?」
「はい。誰かの視線……ですね」
康親は小さく頷くと、背後を見ずに言った。
「視線が濁っている。恨み、執着、欲望……それらが混ざり合った色だ」
玉藻「……最近ずっとつけてきているんです」
康親は歩きながらふと足を止め、玉藻の方へ柔らかく微笑んだ。
「先ほど食べたあぶり餅――あれは厄除けのお菓子なのですよ。平安の頃から変わらず、無病息災を願っていただくものです。」
玉藻は目を瞬かせた。
「厄除け……そうなんですね。」
「ええ。きっと、あなたの厄も払ってくれるはずです。」
穏やかな声だったが、その言葉にはどこか祈りのような真剣さが宿っていた。
玉藻の胸が、ほんの少し温かくなる。康親にそう言われるだけで、不安までも浄化されていくような気がした。
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