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サクラの懸命な看病のおかげで、死にかけていた蛇――ヒイラギは、すっかり元気を取り戻していた。
朝の光の中、細長い体をゆっくりと伸ばし、気持ちよさそうにとぐろを巻く。
「ヒイラギ、今日も元気っすねえ。よかったっす……!」
サクラは嬉しそうに頭を撫でる。
爬虫類特有のひんやりした体温が、逆に彼女には心地よかった。
サクラが学校へ行っている間、ヒイラギの世話をしていたのは――。
「ヒイラギちゃん、ご飯ですよーWWW」
部屋の隅でちょこんと座っていた藁男だった。
藁人形のくせに器用に餌を用意し、水を替え、ケージの掃除までする。
その手際は、まるで長年の飼育員のように慣れていた。
「……藁男、有能WWW」
誰もいない部屋で、自分で自分にうなずく。
ちょっと誇らしげで、ちょっと照れくさそうで、でも確実に嬉しそうだった。
夕方、学校から帰ってきたサクラが、整ったケージを見て目を輝かせる。
「わあっ、すごい! 藁男、今日もお世話してくれたの? ありがとう!」
藁男は、満足そうに
「それほどでもないよWWW」
ヒイラギも藁男の腕を舐めるようによじ登り、くつろいだ。
人間と蛇と藁人形。
奇妙だけど、どこか優しい時間がそこには流れていた。
岸本玲奈サイド
「マジでムカつく…」
あれだけペットショップを巡って高い金を払って揃えた蟲毒用の生き物たち。
どいつもこいつも、三浦隼人に呪いをかけるどころか、全滅したのは玲奈の部屋の水槽やケージの方だった。
そして――それ以来、どうにも“ついてない”日が続いている。
外に出れば、鳩に糞をかけられ、
帰宅すれば家の前で野良猫が堂々と置き土産(糞)をしていく。
さらに昨夜は、屋根裏でネズミが配線を齧ったせいでブレーカーが落ち、危うく火事になるところだった。
「……これ、どっちが呪われてるのよ?」
呟いた途端、視界の端でカラスが電柱に止まり、玲奈をじっと見下ろしていた。
――その瞬間、空気が変わった。
ふと首筋がぞわりと粟立つ。
あれ以来、玲奈が作った蟲毒の犠牲になった生き物たちが、まるで“順番に”仕返ししてきているような感覚。
(まさか……私の蟲毒のせいで酷い目にあった生き物たちが、逆に恨んでる?)
その妄想めいた考えが、どうしても頭から離れない。
鳩も、猫も、ネズミも、カラスも――みんな、こちらを見て笑っているように思える。
玲奈は震える指で玄関の鍵を回した。
「そんなわけ……ない、よね?」
しかし、ドアが開いた瞬間。
足元に、小さな影が走り抜けた。
天井裏からはまたカリ…カリ…とネズミの音。
そして背後で、カラスが低く鳴いた。
岸本玲奈は、スマホの画面に映る三浦隼人の写真を睨みつけた。
何度見ても、あの顔は変わらない。平凡で、つまらなくて、優しいだけのお人好し。
(……絶対に呪い返しなんてできるタイプじゃない)
昔、好きだった。
だからこそ知っている。
あの男は争いごとが嫌いで、他人を悪く言うのも苦手で、誰かを呪うなんて絶対に無理な人間。
「それなのに……」
呟いた声は、思った以上に低く、ドロリとした怨念が混じっていた。
私をふったこと――
後悔させてあげる。
玲奈は、机の上に広げた黒い布をそっと撫でた。
その上には、古い針。赤い糸。そして、通販で密かに購入した“あるもの”。
「次は……ブードゥー人形、試してみようかな」
日本の呪術が効かないのなら、海外の呪いを使えばいい。
確実に“人を呪い殺せる力”――
それが本当に存在するのなら、なんとしても手に入れたい。
その“最初の実験台”には、もちろん三浦隼人を選ぶ。
「大丈夫。あなたは気づかない。
呪われてるとも、恨まれてるとも、死にかけてるとも。」
指先で撫でた藁が、わずかに軋んだ。
玲奈の目は静かに、しかし異様なほどの熱を帯びている。
「ねえ隼人……いろいろ、試してみてもいいでしょ?」
その声には、恋心の欠片はもう残っていなかった。
執着と呪いと、ねじれた未練だけが、彼女の中で渦を巻いていた。
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