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 襖の向こうから、穏やかな声が流れてくる。

「どうしたの。早く入っておいでよ。玉藻さんの話はよく志保から聞いてるよ。入ってこないなら、僕が出て行こうかな──」


 その言葉に、志保の顔が真っ青になる。玉藻は一歩前に出て、志保を守るように立った。


 ──優しげだ。だが、玉藻の本能が危険を告げている。


「志保ちゃん、もう少し後ろに下がって。」

 玉藻が囁くように言う。


「僕が出て行こうかな──」という言葉に含まれていた意味はは、好意でも歓迎でもない。襖の向こうで、声色がさらに滑らかになる。その滑らかさ自体が不自然で、気持ちが悪い。


「あなた──志保のお兄さんではない。いったい誰なの?」

 玉藻は、静かに問いかけた。


 声は柔らかく、それでいて力を孕んでいる。

 襖の向こうの空気がぴたりと止まり、黒い靄が一瞬、息を呑んだように揺れた。

 次に返ってきた声は、先ほどまでの人間らしい響きを失い、囁きに似た奇妙な重層音を帯びていた。


「誰なんだろうね──」

 低く、しかし楽しげに笑うような声。


「まだ名前がないんだ。君が、名前を付けてくれるかな?」


 玉藻は目を細める。

 声だけがある。形は見えない。けれど、確かにそこに“存在”だけは感じられる。


「声しかわからないのに、名前は付けられないわ」

 穏やかな口調のまま、玉藻は答える。


「姿や形、あり方……どうして、何のために生まれてきたのか。

 それがわからなければ、名前は付けられない」


 一瞬の沈黙。

 空気がわずかに震え、湿った匂いが強くなった。


 そして――

 襖は、音もなくゆっくりと開いた。


 淡い夕光が室内に差し込み、志保の兄の姿を照らし出す。

 その輪郭は静謐で、まるで先ほどまでの“来るな”という怒声の主とは別人のように穏やかだった。

 だが、彼の右手には――鈍い光を放つサバイバルナイフが握られている。

 刃先には、わずかに黒い靄が絡みついていた。

 それは煙のように揺らめき、志保の兄の腕の動きに合わせて生き物のように形を変える。


「わかったんだ、玉藻さん」

 その声は優しげで、妙に落ち着いていた。


「君は素晴らしい。君を得ることで、凄い力を得ることができる」

 目の奥で、淡く闇が笑った。


「でも──敵にまわると、とてつもなくやっかいだ」


 志保が小さく息を呑む。

「お兄ちゃん……?」


 玉藻はさらに一歩前に出る。


「なるほど……あなた、“生まれたばかり”なのね」


「生まれたばかり?」


「そう。人の恨みや嫉妬が寄り集まって、たまたま“ここ”で形を得た。だからまだ名もなく、姿も借り物。志保のお兄さんの心を器にして、居心地のいい場所を見つけたつもりになってる」


 志保の兄の顔がわずかに歪んだ。

 その瞳の奥、黒い靄が波のように脈打つ。


「居心地が……いいんだよ。君にはわからないさ。この世界の冷たさを」


「わかるわ」

 玉藻は静かに言った。


「だからこそ、あなたを滅ぼすんじゃない。元の場所へ返すの。他人の中で穢れを増やさないように」


 その言葉と同時に、室内の気温がわずかに上がった。

 光が、玉藻の掌に集まっていく。

 志保が息を呑む。

 ――“黒いもの”が、それを恐れて揺らめいた。

 次の瞬間、兄の腕がぴくりと跳ね、刃が玉藻の方へ向かって閃いた。

 玉藻は一歩も引かず、ただその瞳で真っすぐに見つめていた。

「さあ、帰りましょう。あなたのいるべき場所へ――」



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