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「ねぇ、玉ちゃん……ちょっと、相談してもいい?」
放課後の校門。
部活帰りの三浦志保が、夕焼けの影の中で玉藻の袖をつかんだ。
いつもは明るく、後輩からも頼りにされている志保が、今日は妙に沈んでいる。
「どうしたの? 志保ちゃんがそんな顔するなんて珍しいじゃない」
玉藻が軽く首をかしげると、志保は唇を噛み、言葉を選ぶように小さく息をついた。
「……兄の様子がおかしいの。肝試しに行ってから、まるで別人みたいで」
「別人?」
「うん。夜になると、誰かと話してるみたいな声がするの。母が部屋をのぞいたら、“来るな”って叫ばれたらしくて……。あの兄がそんなふうに怒鳴るなんて、信じられない」
志保の兄――大学生で、普段は温厚で優しい性格。
副業でネット転売をしていると言っていたが、それも趣味の延長だった。
だが、今は何かにとり憑かれたように無言でパソコンを睨みつけ、時折うわ言のように誰かと話しているという。
「お祓いに行こうって言っても、絶対に行かないの」
志保は俯いたまま、手のひらをぎゅっと握りしめた。
玉藻は黙ってその手を見つめる。
黒い靄が微かに憑いてる。
おそらく志保の兄に憑いている黒い靄が、志保の手に移ったのだろう。
「……志保ちゃんの家って、西陣のほうだよね?」
「うん。昔ながらの町屋。両親と兄の四人暮らし」
「わかった。今から行こうか」
「えっ、でも、もう暗くなるし……」
「大丈夫。少し気になるの。早い方が良い」
玉藻はポケットから携帯を取り出し、ひとりの名前に指を滑らせた。
――サクラ。
『もしもし、サクラ? 今から友達の家に行く。お兄さんが肝試しのあと別人みたいになったらしいの』
『了解っす。私も行く。犬の姿のほうがいい?』
『それはだめ!目立たないように。携帯に住所送るね』
『OK、すぐ行くっす!』
通話を終え、玉藻はふっと笑みを浮かべた。
その微笑みは、どこか人ならぬ静けさをまとっていた。
「志保ちゃん、大丈夫。ちょっと見てみよう。お兄さん、きっとまだ戻れるわ」
玉藻と志保は、細い路地を抜けて志保の家の前に立った。
目の前の町家は、典型的な織屋建の京町家。西陣に多く残る、糸を織ることに最適な造りだという。
夕暮れの西日に照らされる町家の前で、玉藻はふっと息を止める。
――澱んでいる。
視覚ではなく、肌で感じる空気の重さ。
微かに腐ったような匂い、埃のようでありながら生気を吸い取るような感覚。
玉藻は無意識に背筋を伸ばした。
これは、ただの人間の感情や疲労ではない。
志保の兄が、何か良くないモノを連れてきてしまったに違いない。
「……玉ちゃん」
小さな声で呼ぶ志保の顔も、少し青ざめている。
玉藻は静かに頷き、視線を家の隅々に巡らせた。
まだ家に入っていないのに、見える。
あちこちに黒い靄が漂い、まるで人影のように形を変えて揺れている。
風で揺れるように見えるが、風はほとんど動いていない。
それぞれの靄が、内部の何かを覗き込んでいるような気配を放っている。
「……これは……」
まだ一歩も家に入っていないのに、既にここはただならぬ場所だと告げている。
志保は小さく唇を噛み、視線を床に落としたまま固まっている。
「お兄さん……本当に、大丈夫かな……」
玉藻は一瞬、微笑みを浮かべる。
いや、笑みではない。
冷静に、何をすべきかを即座に判断するための表情だ。
「大丈夫。私たちで確かめる。」
しかし、心の中では警戒が張り巡らされる。
黒い靄は、家の中から溢れ出ている。
この先、家の中に踏み込めば――間違いなく、さらに濃く、まとわりつくように玉藻を包むだろう。
玉藻はゆっくりと息を整え、志保の肩に手を置く。
「行こう。お兄さんの部屋まで」
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