62 事件の始まり
街はいつも通り、穏やかで美しかった。
秋の風が古い瓦を撫で、朱の鳥居が陽に照らされている。
けれど――その静かな美しさの裏で、街は少しずつ、確かに変わっていた。
観光地として知られる古都には、今やかつてないほど多くの外国人が押し寄せている。
四季折々の景色を求めて、スマートフォンを掲げ、笑い声が響く。
日本語よりも、英語や中国語、フランス語が飛び交うのが日常になった。
だが、その賑わいの裏で、
静かに崩れ落ちているものがある――“祈り”だ。
昔から、この街を支えてきた寺社の多くには、目に見えぬ「結界」が張られていた。
神と人とを隔てる、薄くて強い境界。
だが今、その結界は揺らぎ始めている。
神を信じぬ者が多く押し寄せるだけで、
結界は少しずつ力を失っていく。
それは理屈ではなく、古くからの理――信仰の気配が薄れれば、神域の護りもまた消えていく。
気づけば、観光客の半数以上が外国人になっていた。
そして、神を信じる日本人の姿は、街から少しずつ消え始めている。
混雑と喧騒を嫌い、かつてこの街を敬って訪れていた日本人観光客が、
今では他の土地へ流れていく。
人の祈りが減れば、神の力も減る。
そうして、神を信じない者たちの無邪気な足跡が、
少しずつ――確実に、古都の結界を削っていった。
そのことに、まだ誰も気づいていない。
けれど夜、街の外れにはもう、
淡い黒い靄が漂い始めていた。
康親が張った結界が弱まり、
長い眠りから覚めるように、何かが――この街に目を覚まそうとしていた。
その頃から、玉藻は夜ごと、
同じ悪夢にうなされるようになった。
夜更け。
部屋の中は静まり返り、窓の外では秋の虫の声がかすかに響いていた。
寝室の灯りは落とされ、カーテンの隙間から月の光が差し込む。
突然、玉藻が小さくうなり声を上げた。
その顔は苦しげで、額にはうっすらと汗がにじんでいる。
「……やめて……だめ……」
隣の布団で眠っていたサクラが、はっと目を覚ました。
すぐに身を起こし、玉藻の肩に手を置く。
「おねーちゃん? 大丈夫っすか?」
玉藻は息を荒げ、ゆっくりと目を開いた。
一瞬、何が現実なのかわからないような焦点の合わない瞳。
「……私、またうなされてたのね」
サクラは静かに頷き、玉藻の髪をそっと撫でた。
「うん。苦しそうだったっす」
玉藻はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「夢の内容は覚えてないけど……
人が、たくさん死んでたような気がするの」
その言葉に、サクラの表情がわずかに強張った。
「……それ、もしかして――」
サクラは言葉を濁した。
玉藻の夢には、時々“兆し”が現れる。
過去の記憶か、未来の警告か。
その区別はつかない。
サクラは玉藻の手を握った。
「大丈夫っす。あたしがいるっすから」
玉藻は微かに微笑んだが、その笑顔はどこか儚かった。
窓の外では、風が吹き抜けるたびに、遠くで犬が吠える声が聞こえた。
サクラの耳がぴくりと動く。
(……何か、来てる)
その瞬間、サクラは確かに感じた。
康親の結界の外――
街の端に、黒い靄が蠢き始めている気配を。
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