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玉藻は紅茶のカップを両手で包みながら、ふと呟いた。
「でもね、サクラ。もう平安時代じゃないのよ。
今は戦もないし、妖もいない。
そんな危険なこと、もう起こらないわ。
だから……“守る”なんて言わないで。
二人とも、自分の人生を楽しんだ方がいいの」
サクラは膝を抱えたまま、ゆっくりと首を横に振った。
その瞳はまっすぐで、少し悲しそうだった。
「それができたら、どんなに良かったか……」
「え?」
「黒い靄っす。
あれ、この世界にたくさんあるっすよ。
人の心の中に。
嫉妬とか、怒りとか、悲しみとか……
そういうのが溜まると、靄になるっす。
それが玉藻様に寄ってこないように、
私が見張ってるっす」
玉藻は笑いかけようとしたが――笑えなかった。
サクラの瞳は冗談ではなく、真剣そのものだったから。
「サクラ……それ、見えるの?」
「見えるっす。
おねーちゃんが駅で知らない人にぶつかった時、
肩に黒いのがふわって寄ってきた。
すぐ払ったっすけど」
玉藻は言葉を失った。
紅茶の表面に、ランプの光がゆらゆらと揺れている。
「……そんなものまで、見えてるのね」
玉藻は、かすかに微笑んだ。
その笑みには、妹を信じたいという想いと、
どうしようもない不安が混じっていた。
サクラは玉藻を見つめながら、静かに口を開いた。
「黒い靄の正体――あれは、人の心から生まれたものっす。
嫉妬、猜疑、怒り、悲しみ、憎しみ……
人が抱える負の想いが、形を持って漂い出す。
誰かを恨む気持ちが積もれば、靄はどす黒くなって、
やがて“意思”を持つようになるっす」
玉藻は息をのんだ。
「そんなものが……現実に?」
「現実にいるっす。
靄は、弱っている人間にとりつくっす。
自信を失った人、心が傷ついた人、
そして――美しさを理由に妬まれた人。
おねーちゃんのように、強くて綺麗な人ほど狙われるっす。
美しさは祝福であると同時に、呪いでもあるっす」
サクラの瞳が淡く光る。
その奥に、犬だった頃の記憶がちらついていた。
「前の世で、この家を覆っていた靄……あれもそうっす。
お父様を蝕んだのは、職場の人たちの嫉妬と悪意っす。
お母様の病は、心労じゃないっす。
“心を喰らう靄”に取りつかれていたっす。
――黒い影に」
玉藻は唇を噛み、目を伏せた。
「……あなたは私を守ろうとしてたの……」
サクラは、そっと頷いた。
「でも、犬の身では限界があったっす。
だから今度こそ――おねーちゃんを護るっす」
玉藻は何も言えず、ただ紅茶のカップを見つめた。
その中の液面が、キャンドルの光を受けて小さく震えていた。
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