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まさか――。
玉藻さんの妹、サクラさんに初対面で結婚を申し込むなんて。
そんな非常識なことを、自分がするとは思わなかった。
いや、思えるはずがなかった。
剣道部でも真面目一筋、校則違反どころか遅刻もしたことがない。
恋愛だって、遠くから眺めているだけで十分だと思っていた。
――なのに。
気がついたら、あの小さな手を前にして口が勝手に動いていた。
『結婚してください』
言った瞬間、自分の声じゃないみたいだった。
そして次の瞬間――
『はい、よろしくお願いします』
……え?
サクラさんは、笑っていた。
少し照れたように、けれど迷いのない顔で。
気がつけば、自分とサクラさんは結婚の約束をしていた。
まるで夢の中みたいに。
(どうして……こんな展開に?)
頭の中で冷静な自分が問いかける。
だが、胸の奥の熱がそれをすべて焼き尽くす。
――サクラさんは可愛い。
笑うと花が咲くみたいで、真剣な眼差しもまっすぐで、
そんな彼女が「僕と結婚する」と言ってくれた。
正直、自分には過ぎた彼女だ。
こんなに素直で、こんなにまぶしい存在が、
本当に自分の隣にいてくれるなんて。
(……玉藻さんに手紙を渡すまでの、あの悶々とした日々は何だったんだ)
何度も書き直した手紙。
渡すかどうか迷って、一晩中眠れなかった夜。
なのに――
サクラさんとは、たった数分で「結婚」まで行ってしまった。
人生って、こんなものなのか。
いや、きっと“運命”ってやつなんだ。
だから僕は、もう迷わない。
サクラさんと一緒に、玉藻さんを――守る。
ところで――
「玉藻様をお守りします」なんて言ってしまったけど、
……守るって、何から守るんだろう?
今度、サクラさんにちゃんと聞いてみないと。
(特に、何かに狙われてる様子もないし……)
学校では普通に友達と話して、図書館で静かに本を読んで、
たまに風に髪が揺れて――
あれは……危険すぎるくらい綺麗だけど。
(いやいや、そういう意味の“危険”じゃない!)
サクラさんは真剣な顔で「玉藻様を守るっす」って言ってた。
だから僕もつい、勢いで「共にお守りします!」なんて言ったけど……
実際、何から守るんだろう?
ストーカー?
サクラは知っている。
まだ自分が玉藻様の飼い犬だった頃――
あの屋敷の空気は、淀んでいた。
玉藻様のお父様は、夜遅くまで働いていた。
誰よりも家族思いで、誠実な人だった。
けれど勤めていた会社は、まるで魂を削るようなブラック企業。
睡眠も休みも奪われ、やつれていく姿を
玉藻は黙って見つめることしかできなかった。
玉藻様のお母様は、そんな夫を支えるために
いつも笑顔を絶やさなかった。
けれど――ある日を境に、彼女は病に伏せた。
医者は「心労でしょう」と言った。
けれどサクラには、わかっていた。
――あれは心労なんかじゃない。呪いだ。
家の中には、いつのまにか“黒い靄”が漂っていた。
風もないのに揺らめく影。
夜になると、廊下の隅で誰かの声がした。
怒りとも悲しみともつかぬ、低い呻き。
前田家を蝕むその靄は、やがて玉藻様の父母を、
そして家そのものの気を、ゆっくりと奪っていった。
サクラは牙を剥いた。
何度もその黒い影に立ち向かった。
けれど、触れた瞬間に消えていく。
“ただの犬”には抗えない。
あの日のことは、今でも夢に見る。
玉藻様を守ることだけが、自分の存在理由だった。
けれど、犬の身では限界がある。
霊的な呪いに抗う力も、人の言葉を告げる声も持たない。
それでも、サクラはいつも玉藻の傍にいた。
夜、眠れない玉藻の足元で静かに寄り添っていた。
そして――あの日。
遠くから、一台のトラックがこちらへ突っ込んでくる。
運転席の中、男の顔は黒い靄に覆われていた。
目がなかった。
ただ、真っ黒な闇だけがこちらを睨んでいた。
(――来る! 狙われてる!)
サクラは吠え、全力で駆け出した。
けれど、次の瞬間――
玉藻の細い腕が、サクラを抱き寄せた。
「だめ……サクラ、だめ!」
玉藻は自分の体を盾にした。
サクラを庇って、彼女の身体がトラックの前に投げ出された。
鈍い音が響き、世界が白く染まる。
サクラの中で、何かが切り裂かれた。
守りたかった存在が、自分を守って死んだ――。
ただ、玉藻の名を呼び続けた。
魂がちぎれていくような痛みの中で、
サクラは最後の力を振り絞って誓った。
――次の命では、必ず守る。
――今度こそ、あなたを死なせない。
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