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放課後。
夕暮れの光が差し込む剣道場の隅、大神蓮はスマホを手にして固まっていた。
大神蓮は、スマホの画面をじっと見つめていた。
そこには「玉藻」から届いた一通のメッセージが表示されている。
『妹が剣道をしているので、大神くんの話を少し聞きたいと言っています。今度、会ってもらえますか?』
短い文章なのに、何度も読み返してしまう。
胸の奥がふっと沈み、指先に力が入らない。
(……妹? サクラ、って言ったか)
期待していたのは――玉藻本人からの“想いの返事”だった。
ほんの少しでも、自分への気持ちがあるなら、そういう形で返してくれるかもしれない。
そんな淡い期待があったのだ。
けれど現実は、妹のためのお願い。
彼女自身の想いではない。
(……そうだよな。俺なんかに、そんなはず……)
苦笑がこぼれる。
けれど、不思議と腹は立たなかった。
拒まれたわけじゃない。
“会いたくない”と切り捨てられたわけでもない。
それだけで、なぜか少し救われた気がした。
(妹さんが剣道をしてるのか……)
想像してみる。
玉藻とは正反対に、活発で元気で、笑顔が似合うタイプだろうか。
稽古で竹刀を振っている姿が自然と浮かんだ。
(子ども相手でも、まあ……いいか)
誰かに剣道を教えるのは嫌いじゃない。
それに、玉藻と繋がる“きっかけ”があるなら、それだけで十分だ。
大神はスマホを握り直し、深呼吸してから指を動かした。
『もちろん大丈夫です。週末なら時間を合わせられます。場所はどこがいいですか?』
送信ボタンを押す。
ほんの一秒の沈黙のあと、“送信しました”の文字が表示された。
その瞬間、胸の奥に小さな波紋が広がる。
期待を捨てきれない自分に、苦笑いが漏れた。
(……結局、俺はまたあの人に会いたいだけなんだな)
窓の外では、夕陽が沈みかけていた。
剣道の稽古で痛んだ手のひらを見つめながら、蓮は小さく呟いた。
「週末、か……」
ほんの少しの希望と、名前も知らない妹への興味。
そのどちらが強いのか、自分でもよくわからなかった。
週末の午前。
春の陽射しがやわらかく降り注ぐ駅前。
玉藻はサクラと並んで立っていた。
待ち合わせの場所は――前に、泰親と会ったあの場所。
ベンチの横には、今も同じ時計台。
その音が、かすかに胸を打つ。
(なんだろう……この感じ)
玉藻は足元を見つめながら、静かに息をついた。
懐かしいような、少し切ないような。
あのときとは違う季節なのに、風の匂いはどこか似ていた。
サクラはそわそわと落ち着かない。
制服ではなく、白いパーカーにジーンズというラフな格好。
頬はほんのり紅潮している。
「ねえ、おねーちゃん。どんな人なんすか、大神くんって」
「剣道が強くて……まっすぐな人、かな」
「まっすぐ、かぁ。楽しみっす!」
その笑顔がまぶしくて、玉藻は思わず目を細めた。
サクラがこんなに誰かに会いたがるなんて、本当に珍しい。
(……やっぱり、サクラにとって運命の人なのかもしれない)
時計の針が約束の時間を指したころ、
人混みの向こうから一人の影が近づいてきた。
大神蓮。
背が高く、日焼けした肌。
黒のジャケットの下に、ラフな白シャツ。
姿勢がよく、歩き方にはどこか武道家らしい静けさがあった。
サクラは、息をのんだ。
その香りに、胸の奥がざわつく。
あたたかくて、懐かしくて、泣きたくなるような――そんな匂い。
「おねーちゃん……この匂い、知ってる」
「え?」
「ずっと探してた匂い……間違いない。あの人だ」
サクラの声が震えていた。
その瞳はまっすぐ大神を見つめている。
玉藻は胸の奥がひやりとした。
(まさか……本当に)
大神が二人の前に立ち止まる。
軽く頭を下げ、少し照れたように笑った。
「はじめまして。大神です。……妹さん、だよね?」
大神は駅前に立つ二人を見つけた瞬間、足が止まった。
春の風が吹き抜け、花びらが舞う。
その風に乗って、ふっと――あの匂いがした。
(……この香り)
胸の奥が熱くなる。
懐かしくて、切なくて、心臓の鼓動が跳ね上がるような香り。
初めて玉藻とすれ違ったとき、感じたあの“運命の匂い”。
だが、今はっきりわかる。
その香りは――玉藻ではなく、隣に立つ少女から漂っている。
大神の視線が自然とサクラに向いた。
彼女もまた、大きな瞳でまっすぐこちらを見つめている。
一瞬、時が止まったように感じた。
(なんで……この感覚)
喉が乾く。
遠い昔、誰かを守り抜いた記憶の残響のような――。
魂が覚えている、としか言いようのない感覚。
(じゃあ……あの時、玉藻さんから微かに感じたのは)
思考がゆっくり繋がっていく。
玉藻から漂っていた“懐かしい香り”――
それは、妹のサクラの匂いが移っていたのかもしれない。
(……そうか。俺が惹かれていたのは、最初から……)
胸の奥で、何かが静かに弾けた。
春風がまた吹き、三人の間を通り抜けていく。
玉藻が穏やかに微笑んだ。
「大神くん、妹のサクラです。……会ってくれてありがとう」
「は、はじめまして!」
サクラは緊張しながらも、しっかりと頭を下げた。
大神はその姿に言葉を失った。
懐かしさが、胸を締めつける。
ずっと探していた何かに、ようやく触れたような気がした。
「……こちらこそ。会えて、よかった」
その声はかすかに震えていた。
玉藻は二人の様子を見つめながら、胸の奥で静かに思う。
(やっぱり……この二人、どこかで繋がってる)
風の中に、古い魂の記憶が微かに呼吸していた。
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