53
その夜、徳子は清明神社へ戻った。
灯籠の火がかすかに揺れ、夜風が袖を撫でていく。
「――清明様」
呼びかけると、社の奥から柔らかな光が立ちのぼり、
その中に安倍清明の姿が現れた。
「なんじゃ、徳子か。もう帰ってきたのか」
「神様に……お仕えしたいのです」
清明は扇を軽く動かし、穏やかに微笑んだ。
「もう仕えておるではないか。そのままでよい」
徳子はうつむき、声を震わせる。
「嫉妬することが、苦しいのです。ここを離れても、スマホで繋がっていると同じでした」
清明は少し目を細め、夜空を仰いだ。
「神獣とは、眷属より神に近く、心は人に近い。神でも嫉妬はする。――特に西洋の神はのう、あれは恐ろしいほど嫉妬深い」
そして静かに続けた。
「嫉妬しなくなる、それは解脱の境地じゃ。解脱は遠く果てしない道のりじゃが、苦しみを知る者ほど他を許せる。……少しでも、人の力になってやりなさい」
「……はい、清明様」
清明の姿が光とともに消えると、徳子はしばらく社前に立ち尽くした。
風が止み、桜の花びらがひとひら、掌に落ちる。
その小さな温もりに触れながら、彼女はゆっくり目を閉じた。
――自らの半生が、胸の奥で静かにほどけていく。
康親様と出会うまでは、闇をさまよう日々だった。
インドにも中国にもいた。どこでも欲に溺れ、力に酔い、皇帝の寵愛を受けては国を滅ぼした。
人の怨嗟を浴びても、愛されることと支配することの違いに気づけなかった。
――康親様と出会うまでは。
あの方の穏やかな眼差しに救われ、初めて安らぎを知った。
それ以来、恩を返すことだけを生きる糧にしてきた。
けれど、清明様の言葉が胸に響く。
『少しでも人の力になってやりなさい』
(……そうですね、清明様)
徳子は月を仰ぎ、白い髪を春風に揺らした。
「これからは、康親様のためだけでなく、他の誰かのためにも祈り、尽くしていこう」
その姿はもう、かつて人を惑わした妖しの女ではない。
静かに世を照らす神のように、清らかで美しかった。
雲が裂け、拝殿に一筋の光が差し込む。
その光の中に、再び清明の姿が現れた。
「……九尾の狐、完全に復活しおったか」
彼は遠く京都の山々を見つめ、静かに呟く。
その眼差しの奥に、千年を見通す光が宿っていた。
「本来の神獣としての役目に、ようやく目覚めおった。
長く人の業を背負い、愛と嫉妬と滅びを経て――本来の道を歩み始めたか」
掌をかざすと、風が立ち、社の鈴がひとりでに鳴った。
「九尾が目覚めた今、敵国の神に封印されていた他の神々も、次々と目を覚ましつつある。
天地の均衡が揺らぎ、この国は――大きな転換期を迎えるであろう」
清明の声は低く、しかし誇らしげだった。
「だが心配はいらぬ。あの狐はもう、かつての禍ではない。
その魂は清められ、人の祈りを受けて光を放つ。これからの世で、人々を導く灯となろう」
彼は微笑み、独りごちた。
「――転換の時。ならば我らも再び立つとしよう。この国の未来を照らすためにな」
かつて、天をも欺き国を揺るがした九尾。
その魂がいま、穢れを脱ぎ、清らかな輝きを取り戻したのだ。
「まさか、ここまでの変化を遂げようとは……」
清明は微かに笑みを浮かべた。
「――玉藻のおかげであるな」
彼は扇を畳み、月を仰いだ。
「玉藻は、本当に不思議な存在だ。
あの娘は何もせず、ただ“在る”だけで、人の心を解き、世の流れを穏やかにしていく。
光を放つわけでも、奇跡を起こすわけでもない。
それでも、周りの者たちは気づけば笑顔になり、争いは静まり、風は優しく吹く」
月が雲間から現れ、白く澄んだ光が社殿に落ちた。
「九尾の災いを止めよと告げたが――まさか、元の清らかな神獣にまで戻るとは」
その声音には、驚きと喜び、そして深い敬意が混ざっていた。
「玉藻の在りようは、人の世そのものを癒している。
令和の世においても、あの子が光の縁を結び、神と人、過去と未来をつなぐであろう」
清明は袖を整え、結界の内側に一歩踏み出した。
「――これでよい。流れは正しく戻りつつある」
遠く、京都の山々にかすかな光の筋が走った。
夜明け前の空に、薄桃色の兆しが滲んでいた。
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