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 その夜、徳子は清明神社へ戻った。

 灯籠の火がかすかに揺れ、夜風が袖を撫でていく。


「――清明様」


 呼びかけると、社の奥から柔らかな光が立ちのぼり、

 その中に安倍清明の姿が現れた。


「なんじゃ、徳子か。もう帰ってきたのか」


「神様に……お仕えしたいのです」


 清明は扇を軽く動かし、穏やかに微笑んだ。

「もう仕えておるではないか。そのままでよい」


 徳子はうつむき、声を震わせる。

「嫉妬することが、苦しいのです。ここを離れても、スマホで繋がっていると同じでした」


 清明は少し目を細め、夜空を仰いだ。

「神獣とは、眷属より神に近く、心は人に近い。神でも嫉妬はする。――特に西洋の神はのう、あれは恐ろしいほど嫉妬深い」

 そして静かに続けた。

「嫉妬しなくなる、それは解脱の境地じゃ。解脱は遠く果てしない道のりじゃが、苦しみを知る者ほど他を許せる。……少しでも、人の力になってやりなさい」


「……はい、清明様」


 清明の姿が光とともに消えると、徳子はしばらく社前に立ち尽くした。

 風が止み、桜の花びらがひとひら、掌に落ちる。

 その小さな温もりに触れながら、彼女はゆっくり目を閉じた。


 ――自らの半生が、胸の奥で静かにほどけていく。


 康親様と出会うまでは、闇をさまよう日々だった。

 インドにも中国にもいた。どこでも欲に溺れ、力に酔い、皇帝の寵愛を受けては国を滅ぼした。

 人の怨嗟を浴びても、愛されることと支配することの違いに気づけなかった。


 ――康親様と出会うまでは。


 あの方の穏やかな眼差しに救われ、初めて安らぎを知った。

 それ以来、恩を返すことだけを生きる糧にしてきた。

 けれど、清明様の言葉が胸に響く。


『少しでも人の力になってやりなさい』


(……そうですね、清明様)


 徳子は月を仰ぎ、白い髪を春風に揺らした。

「これからは、康親様のためだけでなく、他の誰かのためにも祈り、尽くしていこう」


 その姿はもう、かつて人を惑わした妖しの女ではない。

 静かに世を照らす神のように、清らかで美しかった。


 雲が裂け、拝殿に一筋の光が差し込む。

 その光の中に、再び清明の姿が現れた。


「……九尾の狐、完全に復活しおったか」


 彼は遠く京都の山々を見つめ、静かに呟く。

 その眼差しの奥に、千年を見通す光が宿っていた。


「本来の神獣としての役目に、ようやく目覚めおった。

 長く人の業を背負い、愛と嫉妬と滅びを経て――本来の道を歩み始めたか」


 掌をかざすと、風が立ち、社の鈴がひとりでに鳴った。


「九尾が目覚めた今、敵国の神に封印されていた他の神々も、次々と目を覚ましつつある。

 天地の均衡が揺らぎ、この国は――大きな転換期を迎えるであろう」


 清明の声は低く、しかし誇らしげだった。


「だが心配はいらぬ。あの狐はもう、かつての禍ではない。

 その魂は清められ、人の祈りを受けて光を放つ。これからの世で、人々を導く灯となろう」


 彼は微笑み、独りごちた。

「――転換の時。ならば我らも再び立つとしよう。この国の未来を照らすためにな」


 かつて、天をも欺き国を揺るがした九尾。

 その魂がいま、穢れを脱ぎ、清らかな輝きを取り戻したのだ。


「まさか、ここまでの変化を遂げようとは……」

 清明は微かに笑みを浮かべた。

「――玉藻のおかげであるな」


 彼は扇を畳み、月を仰いだ。


「玉藻は、本当に不思議な存在だ。

 あの娘は何もせず、ただ“在る”だけで、人の心を解き、世の流れを穏やかにしていく。

 光を放つわけでも、奇跡を起こすわけでもない。

 それでも、周りの者たちは気づけば笑顔になり、争いは静まり、風は優しく吹く」


 月が雲間から現れ、白く澄んだ光が社殿に落ちた。


「九尾の災いを止めよと告げたが――まさか、元の清らかな神獣にまで戻るとは」

 その声音には、驚きと喜び、そして深い敬意が混ざっていた。


「玉藻の在りようは、人の世そのものを癒している。

 令和の世においても、あの子が光の縁を結び、神と人、過去と未来をつなぐであろう」


 清明は袖を整え、結界の内側に一歩踏み出した。

「――これでよい。流れは正しく戻りつつある」


 遠く、京都の山々にかすかな光の筋が走った。

 夜明け前の空に、薄桃色の兆しが滲んでいた。


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