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夜の風が、桜の花びらを運んでいく。
結界を張り終えた康親は、ゆっくりと石畳を歩き、神社の社務所へと戻った。
境内には灯籠の明かりがひとつだけ残り、春の夜気がやわらかく漂っている。
「ふぅ……やれやれ」
鍵を開けて中に入ると、畳の上に淡い月光が落ちていた。
机の上には、白い封筒が一通。見慣れた筆跡――徳子のものだった。
康親は封を切り、さらりとした筆の文字を目で追う。
『しばらく旅に出ます。
少し風を感じたくなりました。
夕暮れの匂いを、もう一度思い出したいのです。
どうか心配なさらぬように。
――徳子』
「……そうか」
康親は小さく息をつき、微笑とも溜息ともつかぬ表情を浮かべた。
「徳子にとっては、必要なことかもしれん」
彼は手紙を静かにたたみ、机の上に置いた。
少しの沈黙のあと、苦笑まじりに呟く。
「だがな、出かけるなら――行き先と、帰る時間ぐらいはちゃんと言っておけ」
その声音には、叱るというよりも、家族を気遣うような温かさがあった。
机の端には、白い小箱が二つ。
令和の街で買った土産――アロマキャンドル「月白」。
淡い乳白色の蝋が、月の光を閉じ込めたように透き通っている。
「……徳子には、この“月白”が似合うな」
そう呟きながら、箱をひとつ開ける。
ほのかな花の香りが、春の夜気に混じって漂った。
桜とも梅とも違う、やさしい白花の香り。
まるで、静かに笑う徳子の気配がそこにいるようだった。
康親はペンを取り、短い手紙を添える。
『徳子へ。
旅は楽しかったか。
あまり心配をかけるなよ。
平安に戻る。
また会おう。
――康親』
筆を置くと、ふっと微笑み、窓の外を見た。
春の夜は静かで、遠くで桜の花びらが街灯の光を受けて舞っている。
「ほんに、そなたは自由なやつだ」
独り言のように言って、古びた直衣に袖を通す。
(帰るべき場所がある。それだけで、幸せなことだ)
袂に、もうひとつの「月白」をそっと入れる。
それは、平安に残したもうひとりの徳子――千年前の彼女へ贈るものだった。
「さて、帰るとしよう」
神社の裏手にある“黄泉がえりの井戸”へ向かう。
歩けば(約一刻=二時間)ほどの道のりだが、今はバスが通っている。
「ふむ……便利なものが普及しておるな」
康親は微笑み、夜風に袂を揺らしながら井戸へと歩いた。
やがて、古びた井戸の前に立つ。
夜の月が雲の切れ間から顔を出し、井戸の縁を銀色に照らしていた。
「徳子、待っていろ」
康親は目を閉じ、静かに古語の祈りを唱えた。
すると足元に淡い光が集まり、風が渦を巻き始める。
「――いざ、平安へ」
衣の裾がふわりと舞い、光の中で康親の姿が消えた。
風は一瞬止み、井戸の水面に月が揺れる。
残された社務所の机の上には、
手紙と、もうひとつの「月白」が静かに灯りを待っていた。
淡い香りが、令和の春の夜にやさしく広がっていく――
まるで徳子の微笑が、そこに残っているかのように。
* * *
気がつくと、康親は柔らかな夜風に包まれていた。
月明かりの下、古い井戸のそばに立っている。
周囲の空気はしっとりと冷たく、懐かしい土と草の匂いが漂っていた。
(……戻ったのか)
顔を上げると、そこに一人の女の姿があった。
「徳子……」
「康親様……!」
徳子は安堵の息をつくように微笑んだ。
その瞳には、わずかに涙の光が宿っている。
「どれほどの時が経った?」
「半刻も経っておりませぬ。けれど……戻られぬのではと、心配いたしました」
康親はふっと笑みを浮かべた。
「そうか。すまぬな」
そう言って、懐から包みを取り出す。
「これは、そなたへの土産だ」
香りのよいロウの匂いがふわりと広がる。
淡い花の香を閉じ込めた小さなアロマキャンドルだった。
「……これは?」
「令和の世の“灯”だ。火を灯すと心がやすらぐという。
遠い未来では、香りと光で人を癒すらしい」
徳子はそっと両手でそれを受け取り、胸の前で抱いた。
「やさしい……白花のような香りです」
「気に入ってくれたなら、何よりだ」
「玉藻様には……会えましたか?」
「ああ。玉藻様だけでなく――サクラ殿にも会えた」
「……サクラ殿?」
「サクラ殿はな、玉藻殿の妹として人に生まれ変わっておった。
元気で明るく、少し気の強い娘だ。玉藻殿を心から慕っておる」
徳子は胸に手を当て、ゆっくりと微笑んだ。
「きっと……玉藻様もお喜びでしょうね。
犬であれ人であれ、あの子の忠義は変わりませぬもの」
「人も獣も、時が流れても、魂は変わらぬものよ」
徳子はキャンドルを撫でながら、静かに呟いた。
「いつか、私も玉藻様とサクラ殿に会ってみたいものです」
康親は柔らかく微笑んだ。
「きっとその時は来るさ。――令和の世は光に満ちていたが、影もまた深い。
おそらく、そなたの力も必要になる」
徳子は静かに頷いた。
「ならば、その日までに、私も心を磨いておきましょう」




