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神社に帰って来る 机の上に 徳子の手紙がある 旅に出ます 康親 徳子にとっては必要なことかもしれん しかし、出かけるなら行き先と帰る時間をちゃんと言わないと
土産物屋を出たあと、三人は人通りの多い通りを歩いた。
カフェの喧騒も落ち着き、街には心地よい夕風が吹いている。
玉藻はふと空を見上げた。
雲間から差す光が街を金色に染め、歩く人々の笑顔もどこか穏やかに見えた。
(そういえば……今日は黒い靄を一度も見ていない)
いつもなら、どこかの路地の角や、ビルの屋上のあたりに、
薄い闇のようなものが漂っているのが見えるのに。
(康親に相談しようと思っていたのに……)
玉藻は小さく首をかしげる。
(でも今日は、なんだか街全体が明るい。人の表情も、やけに幸せそう)
自分が浮かれているから、そう見えるのかもしれない。
そんなふうに思って、玉藻は少し照れくさく笑った。
――けれど玉藻は知らない。
康親が歩くたびに、足もとから薄く立ちのぼる黒い靄を見逃さず、
指先で印を切り、静かに払っていたことを。
声も立てず、誰にも気づかれぬように。
その所作は、まるで風に触れるように自然で、優しかった。
彼の歩いたあとには、透明な光がわずかに揺らめき、
街の色が一段、明るくなる。
サクラが、目を丸くしてつぶやいた。
「康親様……優雅に邪気を払ってるっすね」
サクラは、康親の指先から放たれる淡い光を見つめていた。
その光が黒い靄を浄化していくたび、彼女の胸の奥に熱い衝動が湧き上がる。
「康親様……」
サクラは真剣な表情で口を開いた。
「陰陽道、習いたいっす。玉藻様を守るのに、必要っす」
玉藻が驚いたように振り返る。
「サクラ……あなた……」
サクラはまっすぐな瞳で玉藻を見つめた。
「私が妹に生まれてきたのは、玉藻様を守るためっす。
前の世でも、今の世でも、それは変わらないっす」
その言葉に、康親がゆっくりと目を細めた。
静かな微笑が、彼の口もとに浮かぶ。
「……そなたは、十五歳にして天命を知っておるのだな」
その声は柔らかくも、どこか感嘆を帯びていた。
「孔子様が五十にして知ったことを――そなたはもう、悟っておる」
サクラは少し照れくさそうに笑いながら、首の後ろをかいた。
「そ、そんな大それたもんじゃないっす。ただ……おねーちゃんが笑っててくれたら、それでいいっす」
玉藻は胸の奥がじんと温かくなった。
(……私はサクラが笑ってくれたらいい)
康親は空を仰ぎ、微かに風を感じ取るように呟いた。
「強き想いは、術に勝る力を持つ。――よい心だ」
街のざわめきの中、三人の間に静かな絆の光が流れた。
それは黒い靄を払う光よりも、ずっと柔らかく、あたたかいものだった。
玄関の灯りが、柔らかく二人を包んでいた。
「今日は……楽しかったわ」
玉藻が微笑むと、サクラもうなずく。
「また行きましょうね、康親様!」
康親は穏やかな眼差しで二人を見つめ、軽く頷いた。
「うむ。次は、もう少し静かな場所がよいな」
スマートフォンを取り出して、三人で連絡先を交換する。
画面の明かりが、夜風に揺れる髪をほのかに照らした。
「じゃあ、また」
玉藻が手を振り、サクラが元気よく続く。
「おやすみなさいっす!」
二人が家の中に入っていくまで、康親は静かに立っていた。
扉が閉まる音を聞くと、ふっと表情を変える。
「さて――掃除をするか」
その声には、先ほどまでの柔らかさはない。
指先で印を切り、足もとに淡い光の輪を描く。
家の周囲に、静かに結界が張り巡らされていく。
目には見えないが、風の流れが変わり、夜の空気が澄んでいくのが分かる。
「このあたりは、少し“溜まって”おったな」
呟きながら、康親は小さな御幣を取り出し、ひと振りする。
すると、家の陰や木の根もとに潜んでいた黒い靄が、煙のように揺らめき、やがて消えていった。
「これでよし」
彼は空を見上げた。
雲の切れ間から覗く月が、どこか柔らかく光っている。
(玉藻も、サクラも……今夜は穏やかに眠れるだろう)
康親は微笑を浮かべ、踵を返した。
その背中を夜風が撫で、結界の光が静かに溶けていく。




