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机の上に、紙を一枚置いた。
墨で丁寧に書かれた文字は、たったひとこと。
「しばらく旅に出ます 徳子」
それだけ。
理由も行き先も書かない。
ただ、あの屋敷を出なければ――また心が濁ってしまう気がした。
徳子は支度を整える。
久しぶりの外出。
生成りのブラウスにロングスカート、肩には薄いストール。
観光地にいそうな若い女性の旅装。
鏡に映る自分を見て、少しだけ笑った。
(千年生きても、人の服はやっぱり難しいですね……)
外に出ると、春の風が頬を撫でた。
清明の言葉が胸の奥に残っている。
――「魂は流れねば濁る」
まずは、白狐の夫婦に会おう。
京都の古社で神の使いを務める白狐の夫婦。
徳子が改心してから、世話になった。
「きっと今も、あの神社で元気にしているはず……」
徳子は小さく息を吐き、歩き出した。
鳥の声が静かに響く。
背後に残した神社の方角へ、ひとつだけ頭を下げた。
「康親様……しばらく、行ってまいります」
声は風に溶けていく。
その横顔には、もう以前のような翳りはなかった。
――旅に出る。
それは逃避ではなく、再び自分を取り戻すための一歩。
カフェの窓際。
午後の陽射しがテーブルをやわらかく照らしていた。
康親と玉藻は、少しぎこちないながらも近況を語り合っていた。
「ところで――」
康親がふと、玉藻の足元を見た。
「その犬は?」
「え? サクラのこと?」
玉藻が視線を向けた瞬間、空気がふわっと揺らめいた。
次の瞬間、白い光が弾け――カフェ全体が白い閃光に包まれる。
天井がかすかに震え、カップの氷がからんと鳴った。
そして、光が収まった時。
そこに一人の少女が立っていた。
「……え?」
「な、何いまの?」「撮影?」「ドッキリ?」
店内がざわつく。店員まで奥から顔を出した。
白いワンピース、きらめく金の瞳。
その少女――サクラは何事もなかったように椅子に腰を下ろし、玉藻のアイスコーヒーをちゅうっと飲んだ。
「サクラ殿……そなた、転生していたのか」
康親は眉一つ動かさず、落ち着いた声で言った。
「当たりっす~。人間ボディ、なかなか悪くないっすね」
にやりと笑うサクラ。
(今、光の中から女の子が現れたよね!?)
(あの男、普通に話してるけど……知り合い?)
(てか、二人とも可愛いし……何この異次元カップル構成!)
周囲が完全にざわつく。
女子グループの一人が小声で囁く。
「ねぇ、あの人、どっちと付き合ってるの?」
「どっちって……どっちも可愛いし、どっちでもムカつく!」
カフェの中に、静かな嫉妬の波が広がった。
玉藻は真っ青になっている。
「サクラ! 人前で光って出てくるの、やめてってば!」
その瞬間、店内で一斉にスマホのシャッター音が響いた。
「うわ、撮られてる!?」
「“光る美少女出現”ってトレンド入りしそうっすね」
「やめてぇぇぇ!!」
玉藻の悲鳴がカフェ中に響いた。
康親は静かに立ち上がり、指先で空をなぞる。
「玉藻殿はもちろん、サクラ殿の姿を他の者に見せるわけにはいかない。――私は嫉妬深いのでな」
低く呟いた瞬間、康親の周囲に光の輪が走った。
見えない風が店内を包み、空気がひやりと震える。
「え?」「Wi-Fi切れた?」「圏外?」「スマホが初期化されてる!?」
あちこちでざわめきが起きた。
サクラが目を丸くする。
「うわ、マジでやったっすか!? 電波、死んだっす」
玉藻は半泣きで言う。
「こ、これでいいの?」
康親は静かに頷いた。
「うむ。――これで、大丈夫だ」
彼の微笑みは穏やかで、どこか危ういほどに美しかった。
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