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今日は、康親様の“デートの日”。
朝からいつもよりそわそわしていて、衣の襟を何度も直したり、鏡の前で髪を撫でつけたり――まるで初陣に向かう若武者のような気合いだった。
「玉藻殿と会う」と言ったその時の笑顔は、まぶしくて、見ていられなかった。
そして、約束の時刻よりずっと早く、康親は屋敷を出ていった。
残されたのは、静まり返った部屋と徳子ひとり。
いつものように掃除をして、本殿で祈りを捧げる。
――何かしていないと、胸が痛くてたまらない。
神社の境内を歩けば、鈴の音が風に揺れて鳴った。
人々の願いが込められた絵馬がずらりと並ぶ。
「恋愛成就」「両想いになれますように」「推しに会いたい」――どれも愛しい願いばかり。
徳子は、思わず立ち止まってしまった。
(恋愛……ね)
小さく笑う。
自分の恋が、どんなに祈っても叶わないことを、一番よく知っている。
千年の時を越えてなお、待ち続けてきた相手。
その人が、今は別の誰かのもとへ向かっている。
「……自分の恋もままならないのに、人の恋を叶えるなんて」
自嘲するように、徳子はつぶやいた。
胸の奥の重石のようなもの――それが、玉藻への嫉妬だと分かっていても、どうにもならなかった。
(……あの方を想う気持ちが、こんなにも醜いなんて)
両手を合わせ、深く頭を垂れる。
「どうか、この心を鎮めてください。あの方が幸せでありますように……」
静寂の中で、時間がゆるやかに溶けていく。
そのとき――ふと、頭の中に声が響いた。
『……徳子、どうしたのだ?』
はっとして周囲を見回すが、誰もいない。
それでも、確かに聞こえた。耳ではなく、心の奥に直接。
「……神様、ですか?」
『神様というのは少し違うかのう。ここは清明神社じゃ。
わしは長年ここに祀られておる――清明じゃよ』
徳子の目が見開かれる。
「清明様……! お久しゅうございます」
『うむ。久方ぶりじゃな、九尾よ。
今は徳子と呼ばれておるそうじゃな』
「はい。康親様に名前を頂きました」
『そうか――あやつには陰陽師の才がある。
まさか千年を越えてまで、玉藻殿を追うとは思わなんだ』
清明の声には、わずかに苦笑が混じっていた。
徳子は、再び頭を垂れた。
「……清明様。私は――嫉妬で鬼になるかもしれません」
その声は震えていた。
玉藻に向ける感情が、羨望から憎しみに変わりつつあるのを、
彼女自身が一番よく分かっていた。
しばしの沈黙のあと、清明の声が境内の風に溶けて響く。
『徳子。――一途は、美徳ではない』
「……え?」
『それは怠慢だ。ひとつしか見ぬ者は、ひとつを失えば壊れる。
それは信仰でも、愛でも同じことじゃ。
そなたは長い時を生きてきたのに、いまだ一人の男の影を追っておる。
それでは、魂が育たぬ』
徳子は唇を噛んだ。
「ですが……あの方を忘れることなど、できません」
『忘れろとは言わぬ。
ただ、“あの方しかいない”と思い込むことをやめよ。
そなたの見てきた千年の世の中には、まだ知らぬ景色がいくつもある。
多くの人に会い、歩み、感じなさい。
そうすれば、鬼にはならぬ』
清明の声はやさしく、それでいて鋭かった。
まるで霧を払うように、徳子の心の奥へ染み入っていく。
『魂とは、水のようなものじゃ。
同じ場所にとどまれば濁る。流れ、巡ることで清くなる。』
徳子の目から、一筋の涙がこぼれた。
「……はい。清明様。少しでも、流れてみます」
『それでよい。
康親も、玉藻も、それぞれの流れの中におる。
そなたもまた、己の道を見つけるがよい――』
風が止み、鈴の音がふっと消えた。
その瞬間、清明の気配もまた、静かに遠のいていった。
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