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徳子は、康親の喜ぶ声を聞きながら、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じていた。
気の遠くなるような長い間、彼の帰りを信じ、封印の闇の中でひとり待っていたというのに、彼の目に映るのは玉藻という少女ばかりだ。
「……千年、お慕いしておりましたのに」
気づけば、そんな言葉が唇から零れていた。
神獣としての理性が囁く。
――嫉妬など、卑しい感情。清らかであるべき存在が抱くものではない。
けれど胸の奥では、別の声が静かにささやいた。
――それでも、好きなのだから仕方がない。
徳子は自分の頬を軽く叩いた。
生まれて初めて知る“女の嫉妬”という熱が、胸の奥でじりじりと燃え上がる。
そのとき、康親が何気なく言った。
「徳子の毛並みは本当に気持ちいいな。癒される」
その言葉だけで、心臓が跳ねた。
(そんなこと……そんな風に言われたら)
思わず視線を落とし、誰にも見せない笑みをこぼす。
――好かれていると、思ってしまうではありませんか。
狐の姿のときも、人の女に化けたときも、康親は同じように髪を撫でてくれた。
やさしく、丁寧に。まるで、自分という存在を確かめるように。
安寧の地を与えられ、千年のあいだ屋敷を守り続け、そして――撫でられた思い出。
その温もりに、いつしか心を預けてしまった。
(好きになるなというのが、無理なのです……)
康親の掌が、やさしく頭を撫でる。
その手の温もりに包まれると、胸の奥の黒いものが一瞬だけ溶けていく。
「玉藻殿は、本当に心の美しい方でな――」
――また、その名。
聞くたびに、胸の奥がきりきりと痛んだ。
もう聞きたくない。
でも、撫でる手を止めてほしくなかった。
(お願いです、康親様……今だけ、何も言わずにいてください)
唇をかみしめながら、徳子は小さくうなずく。
その微笑みは、嬉しさと哀しさの境目に揺れていた。
――この温もりを失うくらいなら、嫉妬など、心の底に沈めておけばいい。
そう自分に言い聞かせながら、徳子はそっと目を閉じた。
彼が笑っていれば、それが徳子の幸せだった。
千年のあいだ、ずっとそう信じて生きてきた。
けれど、胸の奥の黒いものは、どうしても消えてくれない。
玉藻。
その名を聞くだけで、理性の底がざわめく。
(もし……あの女に、何かしてしまったら)
その一瞬の想像だけで、全身が凍りついた。
玉藻に危害を加えれば、康親は怒る。
悲しみ、自分を責め、きっと――私との縁を切る。
それだけは、絶対に嫌だ。
彼に嫌われるくらいなら、封印の闇に戻ったほうがまし。
康親が背を向けて歩き去る姿を想像しただけで、胸がきゅっと締めつけられる。
その姿が消える。もう二度と、手が届かない場所へ行ってしまう。
――そんなの、いや。
頭の中で、同じ考えが何度も何度もぐるぐる回る。
理性で抑えようとすればするほど、想いが暴れだす。
康親が玉藻と会えば、きっと彼女を気に入るだろう。
あの人は、優しくて、まっすぐだから。
――だからこそ、怖い。
胸の奥が焼けるように痛い。
抑えようとすればするほど、黒い感情が膨らんでいく。
そして、ぽつりと、唇からこぼれた。
「……振られたらいいのに」
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