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玉藻が玄関の扉を開けた瞬間、
ふわっと温かい匂い――味噌汁と炊き込みご飯の香りが鼻をくすぐった。
「ただいま……」
そう言い終わる前に、勢いよく何かが飛びついてきた。
「おねーちゃん! おかえりっす!!」
サクラだった。
制服のまま、元気いっぱいの笑顔で玉藻の腰にしがみつく。
「ちょ、ちょっとサクラ、いきなり……!」
「だって心配したっすよ! 帰り遅いし、スマホ見たら“既読”つかないし!」
玉藻が苦笑すると、サクラは満足そうに尻尾――いや、髪の毛の先をふわっと揺らした。
(人間の姿でも、こういうとこ犬っぽいのよね)
サクラは軽やかに台所へ駆けていき、玉藻はリビングのソファに腰を下ろす。
カーテン越しに見える夕暮れの光が、どこか懐かしかった。
家の中のぬくもり、人の声、
そして「おかえり」と言ってくれる存在。
(帰る家があるって、こんなに幸せなことだったんだ……最近玉藻は家に帰るたびにそう思っている)
サクラがお茶を持って戻ってくる。
「おねーちゃん、今日なんか疲れてる顔してるっす」
「……うん。ちょっとね。いろんな“もの”が見えちゃって」
サクラは一瞬だけ表情を引き締めた。
「黒い靄、見たっすね?」
「やっぱり……あれ、サクラにも見えるの?」
「見えるっす。あれは“鬼の卵”っす」
玉藻 「あれって、払うことはできるの?」
サクラ 「難しいっすね。鬼が実体を持てば、あっしのひと噛みで払えるっすけど、あの状態はまだ人の心の闇みたいなもんっすから。結界を張って、家に入ってこないようにするくらいっすね」
サクラ 「多分……、康親なら払えるっしょ! 人の“心の闇”の段階で祓う術を編み出してたはずっす」
玉藻 「康親様……」
玉藻は湯呑を置いた。懐かしい名だった。平安の世で、何度も命を救ってくれた陰陽師――安倍康親。
サクラは続ける。
「でもあの人は、ちょっと変態的だったっす。人の夢の中にまで潜って、陰陽道を極めようとしていたっす」
「……たしかに、そんなことしてそう」玉藻が小さく笑う。
「けど、それで助けられた人、いっぱいいたっす」」
玉藻 「……でも、平安時代の人だし。それに――」
玉藻は苦笑いした。
「式神で屋敷を覗いてたあの事件が衝撃すぎて、その後の有能さも優しさも帳消しなんだよね」
サクラ 「イケメンで有能なのに、残念っすねぇ」
「……ねぇ、サクラ」
「なんすか?」
「康親様、この時代のどこかにいる気がするの」
サクラの耳がピクッと動いた。
「……おねーちゃん、それ“予感”っすね。神獣の勘は当たるっす」
玉藻は、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、また会えるのかもしれないね……康親様に」
サクラ 「きっと会えるっすよ。!」
サクラの尻尾が、くすくすと笑うように揺れた。
サクラと玉藻の会話を、康親は式神越しに聞いていた。
「――康親といえば、式神で屋敷の部屋を覗いてたあの事件が衝撃すぎて、その後の有能さも優しさも帳消しに」
その言葉が胸に突き刺さる。
康親はその場に崩れ落ちそうになった。
「……わしは、そんなにも……」
式神の視界に映る玉藻は、笑いながらもどこか照れくさそうで、まるで昔と変わらない。
それを見ているうちに、ふと康親は気づいた。
――自分は、いまも覗いているのだ。
玉藻が心配で、無事でいるか確かめたくて、ただそれだけの気持ちで。
だがそれは、あの頃と何も変わらぬ“覗き”ではないか。
康親は顔を覆った。
「わしは……また嫌われることをしておるのか……」
夜の社務所の隅で、ひとり、平安の陰陽師は打ちひしがれた。
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