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康親は夕刻、参道を歩きながら周囲の人々を見つめていた。
神社の境内は賑わい、屋台の明かりが並び、笑い声が響く。
けれど――康親の目には、別のものが見えていた。
「……黒い靄に覆われておる。」
徳子が隣で首を傾げる。
「黒い靄、ですか?」
「うむ。平安の世では、まれに見かけた。
嫉妬、憎悪、欲――そういった“穢れ”が形をなす。
だが、この時代では……あまりにも多い。」
康親の目には、スマホを睨みつける若者、誰かとぶつかって舌打ちする男、
子どもを叱りつけながら電話をする母親――
彼らの背後に、薄い黒煙のような靄がまとわりついて見えていた。
「これほど豊かで、飢える者も少ないというのに……
なぜ心がこれほどまでに満たされないのだ……」
彼の言葉に、徳子は静かに目を伏せた。
「この時代、人は“心の穢れ”を祓う術を忘れてしまったのです。
神社に来ても、願うのは“自分のこと”ばかり……」
「なるほど……」康親は眉をひそめ、
「良くない心が溢れれば、いずれこの国はまた鬼に蝕まれる。
我らが見た応仁の乱の地獄が、再び……」
徳子が息を呑む。
康親の視線は遠く、未来を見据えていた。
「玉藻殿……そなたの居る世界にも、この黒い靄は広がっておるのか……」
放課後の街は、春の光に包まれていた。
府立高校の制服を着た玉藻は、友達二人と駅前のカフェに入った。
「タマちゃん、ここのパンケーキめっちゃ映えるんだよ!」
「ほんと? 写真撮らなきゃね」
カフェの中は、カップの触れ合う音と、コーヒーの香ばしい匂いに満ちていた。
玉藻は窓際の席に座り、ストロベリーパンケーキを注文した。
隣の席では、大学生らしきカップルが笑い合っている。
――平安の世で、宴の席をいくつも経験してきたはずなのに、
こんなに「普通」の午後が、どうしてこんなに心地いいのだろう。
友達がスマホを向けて「はい、タマちゃん笑ってー!」
シャッター音が鳴る。玉藻は笑顔を作りながら、ふっと窓の外に目をやった。
駅前の雑踏の中、黒い靄のようなものが、一瞬ゆらめいた。
ほんの一瞬
(また見えた……何なの?)
「どうしたの、タマちゃん?」
「ううん、なんでもない」
スプーンでクリームをすくいながら、玉藻は胸の奥にざわめきを覚えていた。
玉藻はカフェを出て、駅へ向かう人波の中を歩いていた。
夕暮れの街はオレンジ色に染まり、制服姿の学生やスーツの会社員たちが行き交っている。
――だが、彼女の目には別のものが見えていた。
黒い靄。
まるで煙のように人々の体にまとわりつき、ゆらゆらと形を変えている。
疲れた顔のサラリーマン、無表情でスマホを見つめる女子高生、苛立った母親……
多くの人達が、少なからずその「黒」を纏っていた。
(あれは……)
玉藻は足を止める。
かすかな記憶がよみがえった。
――平安の世……鬼退治に同行した夜。
――鬼のまわりに漂っていた、あの濃い黒い靄。
あの時は鬼そのものが邪悪だから、当然そう見えるのだと思っていた。
だが――いま目の前にいるのは、ごく普通の人々。
仕事帰りの会社員。買い物帰りの主婦。スマホを見ながら歩く学生たち。
(この時代の人間は、鬼でもないのに……どうして)
玉藻の胸に、冷たい不安が広がる。
「豊かで平和な時代」
けれど、その豊かさの影に、かつて見た地獄の瘴気が潜んでいた。
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