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 康親は鳥居の前に立ち、しばし足を止めた。

 風が通り抜け、どこか懐かしい香りがした。


 ――ここが、かつて我が屋敷のあった場所か。


 目の前には立派な石の鳥居、そして「清明神社」と刻まれた石柱があった。

 境内は広くはないが、木々の緑が生い茂り、空気がどこまでも澄んでいる。

 白い装束をまとった巫女が、拝殿の前を掃き清めていた。


 参拝者の列が途切れることはない。若者も、老夫婦も、外国人の姿さえある。

 皆、願い事を胸に、真剣な表情で手を合わせている。


 康親は胸の奥がじんと熱くなった。

「……安倍清明……いや、お祖父さん……あなたの名が、千年の時を経てもこうして人々に慕われておるとは……」


 石畳をゆっくりと進み、拝殿の前に立つ。

 木の香りが心地よく、鈴の音が耳に柔らかく響いた。


「屋敷はなくとも、魂はここに生き続けておるというわけか……」


 そう呟いて、静かに柏手を打つ。

 目を閉じると、平安の空が瞼の裏に広がった。


 ――屋敷の空気と同じだ。


 清浄で、やさしく、どこか懐かしい。


 康親が参拝を終え、鳥居をくぐると、夕暮れの街は茜色に染まっていた。

 神社から少し歩いた先に、堀川にかかる石橋がある。

 ――戻り橋。


 この橋の名を見て、康親の胸が微かにざわめいた。

 平安の昔より「死人が蘇る」「鬼が出る」と語り継がれた場所。そして清明が式神を隠した場所。


 橋の中央に差しかかったとき、ふいに風が吹き抜けた。

 夕陽が川面に反射し、金色の光が揺らめく。


 その光の中から――一人の女性が現れた。

「……康親……様……」

 康親は驚きに目を見開いた。


 あの柔らかい笑み――囁くような声で自分を呼ぶその女の正体を、ようやく理解した。


「……徳子、なのか?」


 女は小さくうなずき、涙をこぼした。

 その涙は、夕陽の残光を受けて金色に輝いていた。


「はい……徳子でございます。」


 康親はゆっくりと近づき、目の前の女の肩に手を置く。

 その体は微かに震えていた。

「半世紀ほど前、この国が外国との戦に敗れたとき――」

 徳子はゆっくり語りはじめた。

「異国の者たちは、神々の力を恐れ、祓い、封じました。

 私もその一人……いいえ、一匹。封印されてしまいました。」


「ですが……康親様が“戻り橋”を渡られたその瞬間、封印が解けました。

 きっと……康親様の魂が、私を呼び覚ましてくださったのです。」


 涙で滲んだ瞳で、彼女は微笑む。

「ようやく……お出迎えすることができました……」


 康親は首を振る。

「そうだったのか……よくぞ、長きに渡りこの国を見守ってくれた。

 おぬしがいてくれて、私は嬉しい。」


 徳子は嗚咽をこらえながら、康親の衣の裾に手を添えた。

「……また、こうしてお声を聞ける日が来るとは……夢にも思いませんでした。」


 ほんの少し前――自分の時の感覚では、つい今朝方まで一緒にいた。

 その徳子が、自分の名を呼びながら泣いている。


「……徳子」


 目の前の彼女は、長い年月を経た者の面影を宿していた。

 ――どれほどの時を、この地で耐えてきたのだろう。


 徳子は康親の胸にすがりつき、声を殺して泣いた。

「康親様……やっと……やっとお戻りくださったのですね……」


 康親は、その肩に静かに手を置き、黙って頭を撫でた。

 懐かしい毛並みの感触が微かに残っている。

 指先に伝わる温もりに、胸の奥が締めつけられた。


(わしにとっては、つい今朝がたの別れ。しかし、徳子にとっては数百年――)


 言葉にならない思いが込み上げ、康親はただ、優しく撫で続けた。

 徳子は涙を流しながらも、やがてその手に身を預け、安らぐように目を閉じる。


 しばらくして、徳子はゆっくりと空を仰いだ。


「私が封印され、力を失ってから……この神社は長い間、荒れ果てておりました」

 彼女の声には、哀しみに満ちていた。


「雑草が茂り、社は崩れ、人の気配も絶えました。

 けれど――」


 徳子は微笑む。


「戦後、夢枕に清明殿が立たれたという者が大勢現れました。

 そのことがあってから、地元の方々が力を合わせ、境内を掃き清め、社殿を修繕し、灯籠に火を入れてくださったのです」


 康親は静かに頷いた。

「なるほど……私の夢渡りの術の効果がこんなところで……安倍の血筋の者の夢に片っ端から出ていたからな」


「そうして参拝客が増えるたびに、私は少しずつ力を取り戻していきました」


 徳子の目に、ほんのりと光が宿る。

「康親様――時を越えても、人の心の奥には、変わらぬ善意と願いが残っているのですね」


 康親は答えた。

「うむ。世がいかに移ろおうとも、人の心は滅びぬ。……敵国に蹂躙されようとも――」


 その言葉に、徳子は深く頭を垂れた。

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