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 康親が鬼を祓い、正気を取り戻したはずの両総大将は、

 まるで示し合わせたかのように、相次いで病に倒れた。

 勝元は、数日床に伏し、亡くなった。

 宗全もまた、息を引き取った。


 二人の総大将が亡くなると、

 都を覆っていた濁った気が、嘘のように薄れていった。

 夜毎に燃え上がっていた炎は静まり、

 鳴り止まなかっ怒号は、次第に消えていく。


 兵たちは武器を下ろし、戦は、あっけないほど静かに終わった。


 その知らせを聞いた康親は、縁側に座して空を見上げた。


 傍らで控えていた狐が、安堵の笑みを浮かべた。


「さすがは康親様。あのような混乱を鎮められるとは」


 康親は、呟いた。

「やはり……鬼を祓えば、人は生きられぬのか」

 康親の胸の奥には、どうしようもない虚しさが残った。


 康親「そなたには長きにわたり、この屋敷を守ってもらった。もうよい。これよりは――自由に生きるがいい」


 狐はしばし黙して康親を見つめた。

 その金色の瞳が、ゆっくりと揺れる。


「……ご主人様、それはあまりにも勿体なきお言葉。

 けれど、わたくしはここを離れることはできませぬ」


 康親「なぜだ? 外の世界を見たいと思わぬのか」


 狐はふっと微笑み、夜風にたなびく髪を押さえた。

「ここは、わたくしにとって安寧の地なのです。

 子孫の方々がこの屋敷に帰られるその日まで――

 ここを護り続けとうございます」


 康親はその姿を見つめ、やがて静かにうなずく。


「……ならば、好きにせよ。

 ただし無理はするな。そなたの魂が安らぐときが来たなら、

 その時こそ真に自由になるがよい」


 狐は涙を浮かべ、深く頭を下げた。

「はい……ご主人様。

 この魂が朽ちようとも、安倍の名と共にここを護り続けます」




 夜の帳が降り、風もなく、ただ井戸の底から微かな冷気が立ちのぼっていた。

 康親はゆっくりと歩み寄り、苔むした石の縁に手を置いた。


「――再び来たぞ、黄泉がえりの井戸」


 その声は静かながら、決意を帯びていた。

 背後では、狐が心配そうにその様子を見つめている。


「康親様、本当に行かれるのですか? 今度はどの世界へ通じるのかもわかりませぬ」


「わかっておる。しかし……」

 康親は深く息を吸い込み、目を閉じた。


「この手が誰かの救いになるのなら、私は何度でも渡ろう。

 玉藻殿がいる世界か――あるいは、私の力を必要とする世界へ……」


 彼はゆっくりと印を結び、呪を唱えはじめた。

 古の言葉が夜気を震わせ、井戸の水面に淡い光が灯る。


黄泉よみうつつをつなぐ門よ、

 安倍康親の名において請う――道を開け」


 次の瞬間、井戸の奥から渦を巻くような光が立ちのぼり、風が周囲の草木を揺らした。

 狐が思わず目を細める。


「康親様!」


 光の中で、康親はふと笑った。


「また会おう、狐よ。――この命がある限り、私は歩み続ける」

 そう言い残し、彼の姿は光の渦に吸い込まれるように消えた。


 井戸の底から、しばらく微かな光が漏れ続けていた。


 康親はあたりを見回した。

 さっきまで焼け野原だったが、今は――元いた世界と変わらない風景が広がっている。


 弟子の若者が心配そうに駆け寄る。

「康親様、顔色が……ずいぶんお悪いですよ。もうお戻りになったのですか?」


「……戻った?」

 康親は自分の掌を見つめた。まだかすかに、狐の毛の感触が残っている気がする。


「どれほど、時が経ったのだ?」


 弟子は首をかしげて答えた。

「え? 半刻――せいぜい三十分ほどですよ。

 井戸に入られてから、ほとんど時間は経っておりません」


「……三十分?」

 康親の眉がわずかに動いた。


 夢だったのか――いや、違う。


 弟子が不安そうに尋ねる。

「康親様、まさか本当に“地獄”へ……?」


 康親は静かにうなずく。

「確かに行った。そこは地獄ではなく、未来の世界だった」


 康親は一歩、井戸の縁に近づきながら言った。

「……この井戸は、時を越えることができる。

 小野篁がそうしたように、私もまた、未来を見たのだ」


 弟子は息を呑み、ただ黙って師の背を見つめていた。


 康親「わしは三百年後の世へ行っておったのだ」


 弟子「……?」


 康親「京の都は焼け野原、民は飢え、争いに明け暮れておった。まるで地獄じゃ。

 だが、わしがそれを鎮めてきた。東と西、二つの陣に巣くっておった鬼を祓い、戦を終わらせたのだ」


 弟子はぽかんと口を開けたまま、数度瞬きをした。

「……そ、そうですか。さすが康親様……」

 弟子の心の声(井戸に落ちて頭でも打ったのでは……?)


 康親はそんな弟子の内心を見透かしたように、にやりと笑った。

「信じられぬか? ならばそのうちお前も、わかる時が来る。

 この井戸は――時を越えて“過去や未来”に繋がっておるのだ」


 弟子「……は、はい……(ほんとに頭打ってる……)」


 康親は弟子を見て、笑った。

「ふふ、笑うがよい。だがな――今までわしの予言は夢の中で聞いておっただけだった。しかし……実際に未来に行ったことで、その予言はさらによく当たるであろうよ」



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