30
康親は結界の外から、東西両陣の様子をうかがっていた。
夜の闇の中、式神の視界が彼の眼裏に映る。
「……なんと無防備な。こんなにも容易く入り込めるとは」
彼は低くつぶやいた。
どの陣営にも、術の防御が感じられない。僧侶も陰陽師もおらぬ。
結界どころか、護符すら貼られていない。
「兵ばかりを並べ立て、心の守りを忘れておる。
これでは戦う前に、鬼の餌食になるわ」
「ご先祖様……今の時代、誰一人として式神を操る法を知りませぬ」
若者の声は、どこか怯えていた。
康親は眉をひそめる。
「……なんだと? 陰陽寮の者たちはどうした。陰陽師はどこへ行った?」
若者は首を振った。
「陰陽師と名乗る者は都にはおりませぬ。祈祷を行う僧侶はおりましょうが、式神を使うなど――夢物語でございます」
「康親様の子孫の方々は――」
狐はゆっくりと語り出した。
「所領地の若狭国・名田庄におられます。
陰陽の理を伝え、今なおその道を守っておられます。
こちらにいる若者は……安倍の遠縁の者で、若狭の国と京を行き来する連絡役として働いてくれております。心は清く、礼をわきまえた者にございます」
康親の胸の奥で、ざらりと何かが崩れた。
「……陰陽道が、廃れた……だと」
彼の指先がかすかに震える。
清明から受け継いだ“理”の道。
天と地、人と霊をつなぐ術――それが失われたというのか。
「康親様 お召し上がりください」
若者が膳を運んでくる。
簡素な膳には、焼き魚と漬物、それに湯気の立つ味噌汁があった。
康親は静かに箸を置くと、湯呑を口に運び、ひと息ついた。
「ご馳走様……」
そう言うと、膝のそばに座っていた狐が、ふわりと尻尾を揺らした。
「粗末なものでしたが、お口に合いましたか?」
「いや、十分だ。心が温まる」
そう言って、康親はそっと狐の頭に手を置いた。
柔らかな毛並みが指の間をすべり、温かな体温が掌に伝わる。
「式神を放って疲れ切った夜、よくこうして撫でてくださいました」
狐はうっとりと目を細め、康親の膝に頬をすり寄せた。
「おぬしの毛並みは、相変わらず見事だな。」
康親はしばらく言葉もなく、ただ黙って撫で続けた。
戦乱の世で荒れた心を、狐の温もりが静かに癒していった。
狐はぱたぱたと尻尾を揺らし、目を細めた。
「ふふ、昔からお変わりになりませんね」
康親は、しばし険しい顔をゆるめ、思わず笑みを漏らした。
「いや、すまぬ。戦場の瘴気に触れたせいか、少々心が荒んでおった。
おぬしの毛並みは、まるで春の日の陽だまりのようだ」
康親は手を止め、狐の額にそっと手を置いた。
「よし、これで心も整った。まずは西軍の総大将――山名宗全のもとへ参ろう」
「承知いたしました。」
康親は夜の闇に紛れ、廃れた京の町を抜けていった。
空気は淀み、戦の焦げ臭さが風に混じっている。
「……誰も、式神を使えぬとは」
嘆息しながら呟く。
陰陽師の家系に連なる者が一人もおらず、僧たちすら護符も結界も張らない。
「罠かと思うほどだ……」
それでも、康親は歩を止めなかった。
やらねばならぬ――この地獄のような戦を終わらせるために。
式神が淡く光を放つ。
康親はその後を追い、術を唱える。
「目くらましの法――朧月影」
世界がゆらりと歪み、康親の姿が夜気に溶けた。
――そこは西軍の陣。
寝所の中、総大将が静かに寝息を立てている。
鎧は脱がれ、枕元には刀が一振り。
外では兵が酒に酔い、誰も侵入に気づかない。
康親は膝をつき、掌をそっと大将の胸の上にかざした。
「……そこにいるな、鬼よ」
黒い靄が立ち上る。
それは人の憎悪と欲にまみれた“影”――総大将の心に巣くう鬼だった。
それがこちらを睨み、牙を剥く。
「この者は戦が好きでな……血を見たがっておる」
鬼が嗤う。
「ならば眠れ。永き夢の中でな」
康親が印を結ぶ。
「破ッ!」
眩い閃光とともに、鬼が悲鳴を上げて霧散した。
大将の顔が安らかに変わり、深い眠りに落ちる。
康親は静かに立ち上がり、夜の闇へと溶けていった。
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