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 康親は、屋敷の庭を見た。綺麗に手入れされている。

 焼け跡の中、ここだけが奇跡のように残っている。


「なぜ……この屋敷だけ無事なのだ」


 問いかけると、若者が静かに答えた。


「わが安倍家には、代々お守り下さる“守護狐様”がおられるのです。

 炎も刃も、あの御方の加護の前では塵に等しゅうございます」


 その時――奥の襖が、かすかに鳴った。

 すっと立ちのぼる香の煙。

 そこから姿を現したのは、金の髪に白き衣をまとった一人の女だった。


「……まさか」


 康親は息を呑む。

 その目、その仕草――かつて自らの使い魔として仕えた、あの狐だった。


「ご……ご主人様……!」


 女は両手で口を押さえ、目に涙を溜めた。


「ずっと、ずっと……お待ちしておりました」

康親

「おぬし……まだこの屋敷を守っていたのか」


「はい。

 康親様がいなくなられても、康親様の血が絶えぬ限り、

 この地を守ろうと誓いました。

 わたしはその誓いを、今も破っておりませぬ」


 涙をこぼしながら微笑むその姿に、康親の胸が熱くなる。

 長い時を経てもなお、忠義と想いを失わぬ者がいる――。


「今は……私のいた時代から、どれほど経ったのだ?」


 康親の問いに、女――いや、狐は静かにまぶたを伏せた。

「三百年が経ちました」


「……三百年?」


 康親は絶句した。


「この屋敷で余生を過ごせとは言ったが……まさか、三百年ものあいだ守り続けてくれたのか」


 狐は穏やかに微笑んだ。

「はい。ここは、初めて“安寧”というものを手に入れた場所。

 この地を手放すことなど、わたしにはできませぬ」


 月光が差し込み、彼女の白い肌を照らす。

 その姿は、三百年前よりも若く、美しくすらあった。


「……そなた、若返ったように見えるな」


「わたしは、元は神獣でした」


 狐は、ゆっくりと瞳を閉じた。長い睫毛が震え、灯明の光が頬を淡く照らす。


「しかし、かの国の人々――特に宮廷。皇帝と妃、寵姫たちの嫉妬と欲望にまみれた世界で、わたしは“邪気”に染まり、良くないものに堕ち果ててしまったのです」


 その声には、悔恨と痛みがにじんでいた。

 康親は息を呑み、目の前の狐をただ見つめるしかなかった。


「けれど……皆さまは、そんなわたしを、許してくださった。

 そして康親様は、わたしに居場所を与えてくださった……」


 狐はそっと顔を上げ、細い笑みを浮かべる。

 その金色の瞳は、夜空の星のように揺れていた。


「安らげる場所、清浄な空気、そして人々の温かい心……。

 そのおかげで、わたしは神獣としての力を取り戻すことができました」


 康親は静かに頷いた。

 かつての“使い魔”が、いま目の前で“神獣”へと戻っている。

 それは、彼自身にとっても奇跡のような再会だった。

康親は、しばらく言葉を探すように口を閉ざしていたが、やがて穏やかな声で言った。


「長い間、この家を守ってくれてありがとう。私がいなくなった後も、ここを護り続けてくれたのだな。」


狐の瞳が揺れた。


「当然のことにございます。康親様の志と御心を、途絶えさせるわけにはまいりませぬ。この屋敷も、人々の営みも――すべて康親様の御徳があってこそ。」


康親はゆっくりと歩み寄り、狐の頭に手を置いた。

その掌には、温かな感謝の気が満ちていた。


「三百年の時を経てなお、汝がここに在ること、それが何よりの喜びだ。

おぬしがいてくれたからこそ、我が家は滅びなかった。」


狐は目を細め、静かに涙をこぼした。

「康親様のお言葉……身に余る光栄にございます。けれど、わたしこそ感謝しております。

あの日、闇に堕ちたこの身を救い、居場所を与えてくださったのは、ほかでもない康親様です。」


康親は、涙を流す狐を見つめながら、少しばかり困ったように眉を寄せた。


(……いや、もちろん感謝の気持ちはある。あるのだが――)


「狐よ、落ち着け。そんなに泣くでない」

彼はそっと手を差し伸べ、狐の肩に触れる。

狐はその手に頬をすり寄せ、涙をぬぐうことも忘れて嗚咽した。


「うぅ……! 三百年ぶりに康親様にお会いできるなんて……夢のようにございます……!」


康親は苦笑いを浮かべた。

「そう言われるのは嬉しいがな……」

少し言いにくそうに目を伏せる。


(実は、今朝も屋敷の庭で撫でてきたばかりなんだがな……)


 その瞬間、夜風が庭を撫で、花びらがひとひら、二人の間を舞った。



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