28
康親は、屋敷の庭を見た。綺麗に手入れされている。
焼け跡の中、ここだけが奇跡のように残っている。
「なぜ……この屋敷だけ無事なのだ」
問いかけると、若者が静かに答えた。
「わが安倍家には、代々お守り下さる“守護狐様”がおられるのです。
炎も刃も、あの御方の加護の前では塵に等しゅうございます」
その時――奥の襖が、かすかに鳴った。
すっと立ちのぼる香の煙。
そこから姿を現したのは、金の髪に白き衣をまとった一人の女だった。
「……まさか」
康親は息を呑む。
その目、その仕草――かつて自らの使い魔として仕えた、あの狐だった。
「ご……ご主人様……!」
女は両手で口を押さえ、目に涙を溜めた。
「ずっと、ずっと……お待ちしておりました」
康親
「おぬし……まだこの屋敷を守っていたのか」
「はい。
康親様がいなくなられても、康親様の血が絶えぬ限り、
この地を守ろうと誓いました。
わたしはその誓いを、今も破っておりませぬ」
涙をこぼしながら微笑むその姿に、康親の胸が熱くなる。
長い時を経てもなお、忠義と想いを失わぬ者がいる――。
「今は……私のいた時代から、どれほど経ったのだ?」
康親の問いに、女――いや、狐は静かにまぶたを伏せた。
「三百年が経ちました」
「……三百年?」
康親は絶句した。
「この屋敷で余生を過ごせとは言ったが……まさか、三百年ものあいだ守り続けてくれたのか」
狐は穏やかに微笑んだ。
「はい。ここは、初めて“安寧”というものを手に入れた場所。
この地を手放すことなど、わたしにはできませぬ」
月光が差し込み、彼女の白い肌を照らす。
その姿は、三百年前よりも若く、美しくすらあった。
「……そなた、若返ったように見えるな」
「わたしは、元は神獣でした」
狐は、ゆっくりと瞳を閉じた。長い睫毛が震え、灯明の光が頬を淡く照らす。
「しかし、かの国の人々――特に宮廷。皇帝と妃、寵姫たちの嫉妬と欲望にまみれた世界で、わたしは“邪気”に染まり、良くないものに堕ち果ててしまったのです」
その声には、悔恨と痛みがにじんでいた。
康親は息を呑み、目の前の狐をただ見つめるしかなかった。
「けれど……皆さまは、そんなわたしを、許してくださった。
そして康親様は、わたしに居場所を与えてくださった……」
狐はそっと顔を上げ、細い笑みを浮かべる。
その金色の瞳は、夜空の星のように揺れていた。
「安らげる場所、清浄な空気、そして人々の温かい心……。
そのおかげで、わたしは神獣としての力を取り戻すことができました」
康親は静かに頷いた。
かつての“使い魔”が、いま目の前で“神獣”へと戻っている。
それは、彼自身にとっても奇跡のような再会だった。
康親は、しばらく言葉を探すように口を閉ざしていたが、やがて穏やかな声で言った。
「長い間、この家を守ってくれてありがとう。私がいなくなった後も、ここを護り続けてくれたのだな。」
狐の瞳が揺れた。
「当然のことにございます。康親様の志と御心を、途絶えさせるわけにはまいりませぬ。この屋敷も、人々の営みも――すべて康親様の御徳があってこそ。」
康親はゆっくりと歩み寄り、狐の頭に手を置いた。
その掌には、温かな感謝の気が満ちていた。
「三百年の時を経てなお、汝がここに在ること、それが何よりの喜びだ。
おぬしがいてくれたからこそ、我が家は滅びなかった。」
狐は目を細め、静かに涙をこぼした。
「康親様のお言葉……身に余る光栄にございます。けれど、わたしこそ感謝しております。
あの日、闇に堕ちたこの身を救い、居場所を与えてくださったのは、ほかでもない康親様です。」
康親は、涙を流す狐を見つめながら、少しばかり困ったように眉を寄せた。
(……いや、もちろん感謝の気持ちはある。あるのだが――)
「狐よ、落ち着け。そんなに泣くでない」
彼はそっと手を差し伸べ、狐の肩に触れる。
狐はその手に頬をすり寄せ、涙をぬぐうことも忘れて嗚咽した。
「うぅ……! 三百年ぶりに康親様にお会いできるなんて……夢のようにございます……!」
康親は苦笑いを浮かべた。
「そう言われるのは嬉しいがな……」
少し言いにくそうに目を伏せる。
(実は、今朝も屋敷の庭で撫でてきたばかりなんだがな……)
その瞬間、夜風が庭を撫で、花びらがひとひら、二人の間を舞った。




