27 黄泉がえりの井戸
夜が更け、安倍家の屋敷は静寂に包まれていた。
灯明の火が、風もないのにかすかに揺れる。
康親は文机に肘をつき、玉藻の居る遠い時代のことを思っていた。
「……どこかに、まだ道があるはずだ」
その時、ふと脳裏にひとりの男の名が浮かんだ。
――小野篁
かつて都が京に移ったころ、閻魔王宮の役人を務め、昼は朝廷に、夜は冥府に仕えたという怪人。
だが康親の胸に浮かんだのは別の仮説だった。
「閻魔庁に通っていたのではない……。小野篁殿は“時代を越えて”往来していたのではないか。地獄ではなく、玉藻殿のように――」
彼は息を呑んだ。もしそうなら、篁が使ったという井戸を通れば、玉藻のいる時代に辿り着けるのではないか。
翌日、康親はサクラに相談した。
「サクラ殿、もしや井戸を通じて異なる時代に行けるやもしれぬ」
サクラは少し目を細め、記憶を掘り起こすようにして答えた。
「……そういう話、聞いたことあるっす。あっしらが居た現代から戦国の世に通ってた巫女の話っすね。井戸に入れば、別の時代に繋がる……たしかご主人様が読んでた漫画にあったっす」
康親は拳を握った。
「ならば――わしも挑む価値はある」
玉藻に再び会うために。
翌日の夕刻。月明かりがぼんやりと石畳を照らしていた。
苔むした祠の奥に、それはあった。
──黄泉がえりの井戸。
古びた石組みは今にも崩れそうで、覗き込めば底知れぬ闇が広がっている。
康親は息を呑み、独り言のように呟いた。
「……篁殿が冥府へ通ったという井戸……。まだ、この地に残っていようとは」
冷たい風が吹き抜け、井戸の口からぞわりと妖気が立ちのぼる。
「もしや、この闇の先と繋がる世界に、玉藻殿が……」
康親の声は震えていた。
平安の世を離れ、二度と会えぬはずの女性。
だが、この井戸こそが──彼女へ続く唯一の道なのかもしれない。
康親は井戸の縁に手をかけ、躊躇する。
一歩踏み出せば、もはや戻れぬかもしれぬ。
「……玉藻殿……」
呼びかける声は、夜に吸い込まれるように消えた。
井戸の底へ身を投じた瞬間、康親の視界は暗転した。
重たい空気。焦げた匂い。耳をつんざく悲鳴。
次に目を開けた時、そこは――まるで地獄そのものだった。
焼け落ちた都。瓦礫の山。黒煙が空を覆い、赤い炎が絶え間なく踊っている。
地面はひび割れ、血と泥が混じり合っている。
泣き叫ぶ民、略奪に走る兵、倒れ伏す僧。
誰もが、誰かの命を奪わなければ生き残れぬ世界。
「これは……酷い……」
康親は思わず息を呑んだ。
目の前の光景が、夢でも幻でもないことを悟る。
どこまでも荒れ果て、どこまでも絶望に満ちたこの場所。
――地獄。
それ以外の言葉が見つからなかった。
「小野篁……あなたが“地獄”と呼んだのは……この世界のことだったのか」
炎の向こうに、ひときわ高く崩れかけた社が見えた。
そこには、まだかすかに祈りの声が残っていた。
康親は歩き出した。
焦土と化した都の中で――玉藻へと繋がる何かを求めて。
しばらく歩き続け、康親はようやく一軒の屋敷に辿り着いた。
瓦ひとつ崩れず、塀も門も昔のまま。
――そこは、かつて自らが暮らしていた安倍家の屋敷だった。
「……屋敷がそのまま残っている?」
思わず息を呑む。
周囲の建物は焼け落ち、灰すら風に消えていたというのに、ここだけが時間から切り離されたように。
康親が門をくぐると、すぐに人の気配がした。
荒れた屋敷の庭の奥から、灯を手にした小姓らしき若者が駆け寄ってくる。
「ど、どちら様でございますか!」
康親は一歩進み、落ち着いた声で名乗った。
「安倍康親――と申す」
その瞬間、若者の目が大きく見開かれた。
提灯の灯がぶるりと震える。
「ま、まさか……ご先祖様……いや――康親様であらせますか!?」
康親は眉をひそめた。
「なに? なぜ、その名を知っておる」
若者は膝をつき、頭を下げた。
「お屋敷に伝わっております。康親様が未来に向けて書き残された“未来記”――
そこに、この屋敷を再び訪れる”と、確かに記されておりました!」
「未来記、だと……?」
康親の背に冷たい電流が走る。
自らが記したはずのない予言が、この時代に残されている――。
「案内せよ。主に会いたい」
若者は震える手で灯を掲げた。
「はっ……! ただいま当主様をお呼びいたします!」
康親は屋敷の奥へと足を踏み入れた。
懐かしい香木の匂いが、微かに残っている。
まるで、時が止まっていたかのように。




