22
満月の夜。
屋敷の周囲は、重々しい甲冑に身を固めた兵たちがぐるりと取り囲んでいた。
「……まるで籠城戦みたいね」
玉藻は障子の隙間から兵の松明を眺め、苦笑する。
それは帝の命だった。
――玉藻を、元の世界に帰すな。
帝の胸にあるのは恋慕か、それとも執着か。
とにかく彼は、玉藻を手放したくなかった。
だが、屋敷の内にいる者たち――頼光も、四天王も、安倍清明も、康親でさえ――
誰一人として帝の考えには賛同しなかった。
「玉藻殿が帰るのは、そう定められたこと。引き留めるのは筋違いだ」
「そうだ。ご恩を忘れぬためにも、潔く送り出すべきだ」
「ご主人様は、元の世界に戻るのが一番っす。ここにいるみんな、ちゃんと分かってるっすよ」
皆の言葉に、玉藻の胸が熱くなる。
屋敷は緊迫した空気に包まれていた。
その最中、康親の横で、ふわふわの毛並みを揺らしながら、年老いた狐が気持ちよさそうにウトウトと眠っている。
「……あれ? 康親殿、その狐は?」
頼光が問う。
「まさか……例の九尾ではありますまいな」
四天王のひとりが眉をひそめた。
康親は扇子で口を隠し、にやりと笑う。
「屋敷に連れ帰ったときは痩せてボロボロだったが……屋敷で養生させて、ずいぶん見違えた。今はもう、普通の狐と変わらない」
玉藻が驚いて駆け寄り、膝をついて毛並みに触れる。
「本当に……毛並みが綺麗になって……それに穏やかな顔をしてる」
「こやつも最近は、よく眠り、よく食べる。九尾といえど、余生は普通の狐と同じように過ごさせてやりたい」
そう言って、康親は扇を閉じ、眠る狐の背にそっと掛布をかけた。
康親「どうしても帝が玉藻殿の邪魔をするなら、こいつが玉藻殿に化けて時間を稼ぐと言っている。だが、わしとしては、危ないことはさせたくない。あくまで顔見せと、短いやり取りで引き伸ばすだけだ」
玉藻「えっ、私の代わりに……この狐が?」
玉藻が狐を見ると、老狐はゆっくりと目を細め、鼻先で小さく鳴いた。言葉は無いが、「任せておけ」と言っている気がする。――恐れられていた九尾だが、味方になれば頼もしかった。
外では兵が陣を張り、内では仲間たちが玉藻を守ろうとしている。
満月の光が障子越しに差し込み、静かな決戦の夜が始まろうとしていた。
康親は真剣な面持ちで老狐の頭を撫でた。
「こいつには、穏やかな余生を約束しておる。だから無理はさせん。几帳越しに座って帝と文のやり取りをしてくれればいい。」
玉藻は小さく息を吸った。胸の中で走る不安と決意が入り混じる。
「……本当にありがとうございます。」
清明の小さな護符が狐の周りに並べられ、泰成が静かに印を結ぶ。老狐の毛並みに微かな光がまとい、ゆっくりと人の姿が映り込んだ。完全ではない、しかし遠目には紛うことなき“玉藻”の姿──穏やかな微笑みを湛えた女性がそこに座している。
康親は低く呟いた。
「これで、一時、時間を稼ぐことができる」
月の光が白銀のように屋敷を照らし出していた。
玉藻は頼光、四天王、清明、泰親、そして奥方様や屋敷の人々に、丁寧に別れの挨拶を済ませた。皆が涙を浮かべた。
その後、サクラが一歩進み出て告げた。
「自分は、この屋敷で狼と一緒に暮らすっす。少々の呪いぐらいなら、狼と二人で撃退できるからっす。是非にと頼まれたっす」
狼はその場で低く遠吠えをあげ、誇らしげに胸を張る。その姿に屋敷の兵たちがどよめいた。守護獣として屋敷を護る存在が残ることに、安堵した。
その頃、御簾の奥――そこでは老狐が玉藻の姿に化け、帝と和歌を交わしていた。帝は微笑を浮かべ、何度も御簾に近づこうとする。
「夜半の月 君を照らせば 影もまた
我が胸にあり 離れぬ想ひ」
帝の筆がすらすらと走り、差し出された和歌は切々とした恋情に満ちていた。
化け玉藻は静かに扇で口元を隠し、柔らかに返歌を記す。その筆跡は控えめで、しかしどこか気品を湛えている。
「満月の 光に映る 影ならば
やがて消えなん 夢と知りつつ」
その返歌を目にした帝は、しばし沈黙し、御簾に手を伸ばしかけて、結局は拳を握り締めただけで下がった。
帝は夜空に浮かぶ満月を仰ぎ見ながら、御簾の奥に座す「玉藻」の姿を胸に焼きつけていた。
やがて静かに立ち上がり、衣の袖を正し、月明かりの下にひざまずいた。
「……天つ神よ、地の神よ」
低く、しかし震える声で祈りが紡がれる。
「どうか、愛しい人を連れて行かないでくだされ。
たとえこの身と結ばれぬとも、彼女が元気に過ごしておると知れれば、それで良いのだ。
ただ……ただ、この国のどこかで、笑っていてくれるなら」
帝の頬を一筋の涙が伝う。
皇として、帝として涙を見せることは許されぬはず。だが、この瞬間ばかりは一人の男として、愛する女の安寧を願った。
月光は揺らぎ、まるで祈りに応えるかのように御殿の庭の池に白銀の道を描き出す。
それは天へと続く道のようであり、また別れの時を告げる合図のようでもあった。
その様子を遠目に見ていたサクラが、ぽつりと呟く。
「さすが本物の九尾の狐っすね……」
そして――月はさらに高く昇り、時は迫っていた。玉藻が元の世界へ戻る、その瞬間が。
お読みいただきありがとうございました。☆押して頂けると励みになります。よろしくお願いいたします。




