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雅貴はスミレを見ながらはてと内心首を傾げた。自身が《ホール》だと明かしたにもかかわらずスミレが大した反応を見せないからである。
(もしかして《ホール》を知らないとか?)
《ホール》に関しての知識と言えば今や一般常識と言っていいレベルでこの世界に浸透していた。だというのにそんなことありえるだろうか。
答えは否だ。
本田スミレは《ホール》について知っている。
《ホール》は簡単に言えば怪物だ。体に一つ穴が空いており、その穴を人の血肉で埋めなければ渇きが収まらず、凶暴化して人を襲う。並外れた身体能力を持っており、襲われた人には《ホール》の身体にあるものと同じように穴が空く。一瞬の内にだ。それがどんなメカニズムかは解明のしようがなかった。
また、《ホール》は体の穴が小さいほど理性と知能を有すとされていた。
しかし、堀川雅貴は腹部に穴を持っており、そのサイズは最大級と言っていいだろう。それがなぜ未だスミレを襲わないのだろうか。
目の前の光景に恍惚とするままスミレは尋ねた。
「雅貴君は飢えていないんですか?」
雅貴は目を瞬いた。スミレが怯えるでもなく悲しむでもなく頬を染めたままに首を傾げるのだから。その動きは感情のまま荒っぽく、かくかくとしていて幼子の様だった。
「僕は飢えているよ。でも必要なのはこの世でたった一人だけなんだ」
──特別で、大切で、必要で、一つしかなくて、雅貴以外からしたらただのガラクタ。
「この穴を僕の愛しい人で埋められたら、それでかまわないんだ」
変な人だとスミレは思った。
「じゃあ、雅貴君が探しているのはその《人》だったんですね」
にしては物みたいな言い方だったが、よっぽど隠したかったのか、それともそれが《ホール》にとって当然の感覚なのか。スミレには判断が付かなかった。
「うん。そうだよ。だから、君に提案がある」
「なんですか?」
真剣な眼差しで雅貴は白い掌を見せた。相槌を逃さないように意識しつつも、スミレは自身の中のパンドラが果てしない広がりを見せようとしていることに気付いた。
「僕の探し物を手伝って欲しいんだ。僕はね《ホール》を殺しながら《松本サツキ》でこの穴を埋めるために旅をしている。君にはこの二つのもの探しを手伝って欲しい。人探しはやっぱり人の方が得意だと思うし、見られた以上はできるだけこちらに引き込んでしまいたいんだ。ね?」
雅貴が差し出した手をスミレはそう簡単に取ろうと思わなかった。取ってしまいたかったのだが、理性というものがどうも気がかりだった。
(そもそも《ホール》の理性をどこまで信じて良いのか……)
この国では、いや、全世界で《ホール》は危険な怪物として知られている。何万人もの人が一年の内に殺されることだってあるのだ。それと肩を並べるなんて正気じゃない。そして堀川雅貴にとって《松本サツキ》が如何にして愛しい人になったのだろうか。
もうすでに目前で何人もの人を殺したバケモノについて考えるとき、スミレは僅かに触れ合った雅貴の手の冷たさを思い出してゾッとした。しかしそれ以上に熱いものが在った。
(こんなに美しい世界をこれから見ることはできるのだろうか)
危険だ。倫理観も論理観も人として与えられたすべてを失う決断かもしれない。それでもスミレにとって甘美な誘惑であった。
咽かえるようなさび臭い香りが、濁り混ざりだした赤い液体が、空っぽの街を満たしていくのをスミレは三途の川の向こうか何かかと思うほどだった。死せねば見れないだろう絶景が、桃源郷を冒涜する赤が、目の前に広がっているのだ。どうしてこれを忘れることが出来るだろう。
(それに彼の正体に近づけるかもしれない)
始まりの雨の日をスミレは思い出す。目の前の赤と対極にあるような汚れた灰色の世界で立ちすくむ男と、彼から聞いた不思議な話を。
「君だけじゃない。人々にとっても悪くない提案だと思うよ。人類が強力な《ホール》に対して有効手段を持たないことは知ってるよね? でも、僕ならどんな《ホール》でも大体は殺せる。君が手伝うことで救われる命があるかもしれないんだ」
──君が手伝うことで救われる命もあるかもしれない
大義名分を得てしまったなとスミレは呟いた。その瞬間に理性は匙を投げ、意思は賽を投げた。
肉屋の娘だから肉を捌く。それは当然のことだ。大義名分にかこつけて自分の欲望を満たすとき、スミレは性を超えた心の震えを味わった。人のために《ホール》の手伝いをするという形でまたそれが再現されることへの恐ろしさと期待が渦巻きだす。
パンドラは開かれた。
「手伝います。私に手伝わせてください」
自ら触れた雅貴の手はやはり氷菓子より冷たく、人の体温に混じることは無いのだろうと思わされた。
一度零れてしまったものは二度と元には戻らない。
願わくばその底に、何か大切なものが見つかりますように。
「その穴触っていいですか?」
「急に遠慮がなくなったね。だめだよ。そしたら流石に渇いちゃうから」
興味津々に穴を覗き込むスミレの肩を掴んで、雅貴は自身から引き離した。いくら言ってもふとした拍子にやらかしそうだったからである。
少し残念そうに目を伏せてから興味を失ったかのように辺りを見回しだしたスミレに呆れのため息を吐いて、雅貴はこれからどうすべきか考えた。これだけ殺したからには騒ぎになるのは避けられないだろう。しかし正当防衛だと一人心の中でごちる。
(でもなあ。同種がいるかもしれないのにこの街を去るのは……)
いかがなものだろうかと雅貴は悩んだ。
テレビで見た限りあの穴のサイズや発見された遺体の数からして知性は低く、大して強い《ホール》ではないのだろう。が、雅貴がその《ホール》を倒すために送られただろう守護兵団を証拠隠滅の為殺したので、しばらくこの街から被害は絶えないだろう。
(やっちゃったなぁ)
バレたくなかったにしてはヤリ過ぎたか、と、にわかに反省する。これでは自分のせいで八方ふさがりだ。雅貴は気まずさからすうぅと目を細めたがどうしようもない。
「雅貴君」
「ん? どうしたの?」
しばし現実逃避していた雅貴に、さっきまでそこら辺をブラブラ歩いていたスミレが声をかけた。
「テレビでやってた事件の犯人は、雅貴君でもここで死んでる人たちでもないんですよね?」
いつもと変わらない調子で尋ねるスミレに、そう言えば何も知らないんだと気付いて雅貴は一つ頷いた。
「そうだよ。おそらく別の《ホール》の仕業だね」
雅貴がそう答えるとスミレは何やら考え込むような様子を見せた。《ホール》について何か思うところがあるのだろうか。
スミレがふっと顔を上げて雅貴を見るので、雅貴はたじろいで笑みを深める。
「じゃあ、その《ホール》をおびき寄せたらいいんじゃないですか?」
名案だ。と言わんばかりにスミレは手を打つが、雅貴にはよくわからず、分かりやすく首を傾げた。
「《ホール》をおびき寄せて殺して、この集団は《ホール》を倒せましたが相討ちになってしまいましたっていうふうに見せかけるんです。そしたら、怪しまれずにすむんじゃないですか?」
それでも大分怪しいけど、と言いかけて雅貴は止めた。何もしないよりかはマシだと思ったからである。
「そうだね」
得意げな笑顔でスミレがグッドサインを出すのを雅貴はまぶしく感じた。
《ホール》をおびき出そうということになったのでスミレはどうしたらいいのかと雅貴に尋ねた。
「《ホール》には縄張り意識があるからもうじきやってくるんじゃないかな?」
へえと呟いてスミレはこの前テレビでやっていたことを思い出した。確かあれはニュースか何かの特集だっただろうか。
《ホール》には本来縄張り意識があり、特定の場所に停滞し人を襲う。その場所が荒らされれば《ホール》は敵とみなし殺そうとする。縄張り意識や他の《ホール》への敵対意識は、知性が低い《ホール》ほど強い。
「《ホール》の見分け方は知ってるよね?」
「知ってますよ。目の真ん中が白いんでしょ?」
「その通り。僕はコンタクトで誤魔化してるけどね」
雅貴の目は生まれつき黒目の人と変わらなく見える。瞳孔の色までコンタクトで変えられるものだろうかとは思ったが、自分の知識がひとまずあっていたことにスミレは安堵した。
「じゃあ、攻撃の避け方は?」
「知りません」
スミレの返事にまあそうだよねと雅貴は呟いた。知っていたらさっきの守護兵団だって使っていたはずだもの。
「方法は二つある。《ホール》の視界から外れるか、攻撃するかだ」
先ほどの守護兵団はもっと身を隠すべきだったし、攻撃の手を緩めないべきだった。姿が見えなければ、間髪入れずに銃弾を撃ち込まれたら、雅貴だってしばらくは反撃できなかったはずだ。
スミレは頷いた。
「私は攻撃する手段がないから、常に視界から逃げていればいいんですね」
「うん、そういうこと」
雅貴が辺りを見渡しだしたので、スミレも同じように警戒する。
スミレから見て右手の通りに一つの人影が見えた。目を細めてからスミレはそっと人差し指を向けて告げる。
「あの人、《ホール》です」
スミレの指先をたどって雅貴は人影を見つけた。穴も目も確認できないが人間が言うのなら間違いないだろうということにする。
まずいなと雅貴は呟いた。こんな開けた場所でこれほど距離が離れていればこちらは多少動いたところですっぽりと視界に入ってしまうからだ。雅貴はスミレを引き寄せ、地面を蹴り起こした。盛り上がったアスファルトに隠れて《ホール》がやってくるのを待つ。
ぐちゃぐちゃという音が地面を滑って雅貴たちの方に近づいてきた。
スミレを置いて雅貴がその前に躍り出て《ホール》を視界にとらえた。
(確かに瞳孔が白いけど……どうして人間があの距離から目視出来たんだろ)
首を傾げたいが視界をずらさないためにもそれは止めた。疑問に思う雅貴に渇きが襲い、同族排除のために穴が渦巻く。
《ホール》の腹部に穴が空き、それが広がっていくのを静かに雅貴は眺めた。相手が人ならば穴が空くだけだが、《ホール》となるとそうはいかない。
同族排除の意識は相手を無に帰そうとする。
(あの《ホール》、まだ若かったなぁ)
自分のように真理に近づく間もないまま終わるのはなんだか可哀そうなような、それが一番だったような。雅貴は珍しく不思議になった。
スミレが立ち上がり、雅貴の横に並び立つと、そのときにはもう人影はなかった。
「終わったんですか?」
スミレの問いかけに雅貴は黙って頷いた。
「なんだかあっけないですね、死体が残ってない……」
スミレはてっきり《ホール》の死体は残るものだと思っていたので、これでは見せかけれないのではと言いよどんだ。
「まあ僕が《ホール》だからね。これで被害が周辺からなくなれば、倒されたんだと思われるんじゃないの?」
「そう、かも」
楽観視していたのはスミレなのか雅貴なのか分からなくなってしまったが、とりあえずこの交差点は一件落着である。
「とにかく、私んちにいったん帰りましょ。ほら、このカーディガンでその穴隠してください」
自分の穴から血が止まってきているのを確認してから雅貴は差し出されたカーディガンを受け取った。スミレが着ていたときはだいぶゆったりして見えたが、雅貴が着ると布は全く余らなかった。
スミレが好んで着ていた服を伸ばしてしまうのは申し訳なかったが、しばらく見つめて仕方ないかと視線を上げた。
「君の家に行ってどうするの?」
「支度をしてから実家に帰ります」
スミレの平然とした立ち姿を、その表情の冷たさを浮かせるように後ろから日光が照らした。