冬の終わり(1)
こういうとき、いつも心の底を指先でざらりと撫でられたような気分になる。つまり、不快や不安を感じる、ということだ。
彼と手をつないで、街を歩く。すると、彼の背が高いからか、それともその子たちの好みの見た目をしているのか、彼はいろんな人に目で追われて、それからちらりとわたしも見られる。彼女たちがどういう感情を持っているのかは知らないし、勝手に思っているだけだけれど、いつも「彼女はこんなもんか」と品定めされているようで、気が滅入る。
お友だちから恋人になって、三ヶ月が経つ。彼もそろそろ現実がわかってきて、別れたいと思い始めているかもしれない。わたしみたいなちんくしゃで自分勝手な人じゃなくて、彼にはもっと他にいい子がいるかもしれない。そんなの認めたくないけれど、世界は広い。どこでいつ、彼にぴったりの人が見つかるかわからない。
考えれば考えるほど、胸が痛いし、ざわざわする。わたしは彼のことを好きだけど、それすら許されなくなるときが来るのかな。
苦しい。デートのときはいつもこんなふうに暗い気持ちになって、帰ってからひどく落ち込む。せっかく二人でお出かけをして、本当は楽しいはずなのに、劣等感に苛まれてしまう。
でもこんなこと、彼に言えるはずもない。こんな、汚くて、ぐちゃぐちゃしている気持ちを、彼にぶつけることなんてできない。
「やーえちゃん」
「うん?」
「もう駅着いちゃった。……俺んち来る?」
彼はたまに、〝やえちゃん〟と呼ぶ。わたしはいやだと言っているのに、彼はその呼び方が好きみたいだ。
俺んち来る、が、冗談なのはわかっていた。毎度のことだ。また会えるとわかっていてもバイバイはすこし寂しいから、それを軽くさせるための、彼のいつもの冗談。
わたしもいつも「わたしの家に帰ります」と答えている。でも今日は、その冗談に乗ってみたらどうなるんだろう、とへんな好奇心が湧いてしまった。
「……うん」
「ん?」
「行く」
時が止まった。大和がびっくりしている。大和のこういう顔はあんまり見られないから、少しうれしい。
「……八重?」
「だめ?」
「いや、ダメではない」
「まだ一緒に居ようよ」
わたしの長い髪の毛が風に吹かれる。もうそろそろ春が来る。冬の鋭さが抜けて、頬に当たる感触が柔らかかった。
「……じゃあ、行く?」
「うん」
わたしと大和の家は、高校から見ると反対方向にあるから、いつも改札で別れる。しかし今日は、まだ一緒にいられるらしい。
大和の家に行くのは初めてで、自分から言ったこととはいえ、緊張する。手土産は用意しなくていいんだろうか。
「なにか持っていかないといけないよね?」
「あー……まだ父ちゃんも母ちゃんも帰ってないと思う、んで、大丈夫っすよ」
「そっかあ」
大和とお付き合いをさせてもらっています、とご挨拶したかった。残念だ。まだ付き合い始めて三ヶ月しか経っていないけど。
「電車きた、あれに乗るの?」
「うん。こっから十分ぐらい」
「おっけー」
大和は、ずっとわたしと手をつないでくれている。この手が離れなくなればいいのに。
*
電車に十五分乗って、駅から十分ほど歩くと到着した。住宅街の一軒家で、オレンジ色の屋根が可愛らしい。
「やえちゃん、本当に入るの?」
「やまとがいやなら帰るよ」
「俺は全然いいよ」
じゃあ何も問題ないじゃん、と、つないでいた手をくいっと引っ張る。大和は諦めたように鞄から鍵を取り出した。
玄関の鍵が開けられて、大和が「どうぞ」とドアマンをしてくれた。おじゃまします、と呟いて入ると、家の中は真っ暗で、さっき言っていた通り誰も帰ってきていないみたいだ。
「俺の部屋は二階なんで」
入り口の近くにあった階段を二人で上る。家の中がシンとしているからか、やけにこそこそしてしまう。泥棒しにきたみたいだ。
大和は迷いなく『YAMATO』と書かれたネームプレートをぶら下げてあるドアの部屋に入り、電気をつけた。こちらでも小さく「おじゃまします」と言っておく。
大和は上着を脱いで床に座ったあと、ぽんぽんと床を叩いてわたしにも座るように言った。おとなしく、大和の横に腰を下ろす。
「やえちゃん」
「んー?」
「こっちむーいて」
大和の部屋をきょろきょろと観察するのをやめて、ゆっくりと大和の方を向く。何をされるのかは大体わかっている。
大和はふざけているときや、冗談めかしたいときに〝やえちゃん〟と呼ぶのだ。三ヶ月も一緒にいれば理解できるようになる。
「いいです?」
頷く代わりに目を閉じたら、わたしの唇にふんわりと大和の唇がくっついてきた。
何度しても慣れるものではない。恥ずかしくなって、大和の二の腕にぐりぐりとおでこを押し付けた。
「やえ」
「……うん?」
「最近、なんか思ってることがある?」
なんか、とは、たとえばどんなことだ。大和の方に何かあるんだろうか。またしても不安に襲われる。
「……やまとは、なにかあるの」
「俺は何もないよ。最近、やえちゃんの顔が暗い気がして、不安なことがあるんだったら、まず俺に相談してくれたらいいのになあ、とか思ってるんだけど」
そうだ、大和はこういう人だった。自分に不満があるから、わたしに言わせる、みたいな人じゃない。きっと、わたしがやけに落ち込んだり陰っていたりするのをずっと隣でわかっていながら、わたしが自分から切り出すのを待っていたんだ。
なんだか泣きそうだ。泣くみたいなのは、わたしらしくないのに。
涙目になっているのを見られたくなくて、体育座りをして膝との間に頭を入れる。
恋をしていると、自分を自分で制御できないみたいだ。自分の気持ちが自分で一番わからない。どうしてこんなにざわざわするのか、どうしてこんなに暗い気分になるのか、わからないからおそろしい。
「やえちゃん」
「その呼び方やだ」
「やーえちゃん」
「やだって言ってるじゃん!」
顔は上げられない。視界がぐらぐらしているせいだ。こんな自分が一番いやだ。
「やえ、そのまんまでいいから、聞いて」
一度頷く。これできっと彼にも伝わっているはずだ。
「八重が、どういう理由で落ち込んでるのか、ごめんだけど、俺には全然わからない」
「でも、わかろうとすることぐらいはできる、というか、したい。俺が」
「なんか不満がある? もう俺と一緒にいたくない? 俺は何言われても大丈夫だから、教えてほしい」
大和と一緒にいるのがいや、なんて、そんなこと、あるはずがない。どうして彼は、こんな自分に懇願してくれるのだろうか。心なしか、大和の声が少し悲しそうに聞こえる。
「……わかった」
「八重は、なにが悲しいの?」
鼻水が垂れそうだ。ティッシュ、とつぶやいたら、すぐさま箱ごと渡された。
ぐずぐずと鼻をかんで顔を上げた。大和がいつになく真剣な顔をしていて、この人はわたしの悩みに寄り添ってくれるんだ、と改めて実感した。
「お、お話の前に」
「うん?」
「手を、に、握ってくれませんか、」
「何なりと」
手を握られた、と思ったら、ぐいっと強引に引っ張られて大和の両膝の間に移動した。しかも向かい合わせだ。顔を見えないようにする、というのは却下らしい。こんな恥ずかしい体勢で、自分の本当を曝け出さないといけないなんて、拷問か何かだろうか。
「えっと」
「うん?」
「……えーっと」
言葉を選ぶ。なんて言えば、自分のこのどろどろが少しでもきれいに見えるんだろう。
「ゆっくりでいいよ」
「……やまとへの、不満とか、そういうのではなくて」
「うん」
大和はわたしを安心させるためか、わたしの両手を彼の両手で掴んで、にぎにぎしている。
「わたしが、いやで」
「うん」
「わたしが、やまとの隣にいるっていうことが嫌」
「……うん?」
「だって、やまとはあれでしょ? バスケ部でも割とエースみたいな感じだし、一年生からも人気らしいし、男の子の友だちも女の子の友だちもいっぱいいるし、だけどわたしは友だち付き合いもそんなに上手くなくて、じめじめしてるし、それに」
ここから先は、言うか迷う。でも大和は言わないと許してくれなさそうだ。ごまかすことは許さない、と握られた手に言われている気がする。