冬の始まり(2)
考えごとを吹き飛ばすように、ぴゅるりと風が吹いた。暑さよりも寒さに弱いわたしには、生きづらい季節になってきた。校内は暖房がついているのでこんなところに来なければいいだけなのだが、それでは息苦しい。それに、ここじゃない場所だと、安斎と話せない。困る時期だ。
花壇と向き合う体勢になるために、膝にかけていた学ランを、今度は腕を通さずに羽織った。ぬくぬくだ。寒そうにしている安斎には申し訳ないが。
「安斎、ふしぎだよね」
「なにがすか?」
「だって安斎、昼休みもバスケとかしてそう」
「俺、ものぐさ太郎なんすよ。動くのも汗かくのもしんどいし」
「それは、おじいちゃんなのでは」
へへっ、と軽快な音を立てて安斎が笑った。わたしはこの音がわりと好きだ。やけに整った、涼しい顔をしている安斎が、あほっぽい笑い方をしているところにぐっとくる。
「あ、やっぱその名字でバスケしてると、〝先生〟って呼ばれる?」
「〝あんざい〟違いだけど、まあ、呼ばれないこともないっすね」
「やっぱそうなんだ。最初に呼ばれたのいつ?」
「ミニバスの頃なんで、七歳とか八歳とか」
「年季入ってんね」
ぶちぶち花壇に生えた草を引きながら言うと、彼も同じく草を抜きながら、もう一度へへっと笑った。いつ聞いても軽くて楽しそうだ。
「でも、人生で一番ひどいあだ名、〝十三〟ですよ」
「なんで? あー、やまと」
そのあだ名をつけた人は、古いアニメを知っていたものだな、と少し感心した。わたしは、小さい頃にあのアニメを父に繰り返し見せられて「島大介のようになるんだぞ」と言われ続けた。英才教育みたいなものだ。
ぶちぶち、草を引っこ抜く。雑草だらけの花壇はかわいそうだ。冬を待ち構えている花たちのためにも、わたしはこの花壇の責任者として草抜きを頑張らなければいけない。責任者というのは、いま決めた。
彼の手が止まっているので花壇から彼に顔を向けたら、少しだけびっくりした顔でこちらを見ていた。
「え、どした」
「せんぱい、俺の名前知ってたんすか」
「安斎大和じゃないの? ちがったっけ」
「合ってますけど」
ならいいじゃん、と思い、草抜きに戻ると、「いやいやいやいや」と止められた。
「ほんとうに、どうした」
「え? 知ってたのに、下の名前で呼んでくれなかったんすか?」
いつも気だるげな瞳が、わたしをガン見している。気迫を感じた。呼び名を変えろ、と?
「なぜ……なんか恥ずい……いままでずっと安斎だったじゃん……」
「安斎、俺の他にもいっぱいいるんで」
「下の名前もいっぱいいるでしょ」
「この学校にはいないんで」
知らないけど、安斎もたぶんいないだろ。どつきたくなったがやめておく。頷くまで帰してくれなさそうだ、というくらい、彼はなぜか必死になっていた。
必死な彼に気圧され、わたしはしぶしぶ頷いた。
「やまとね。了解」
「やえ」
ちらっと横を向いたら、鼻頭と耳を真っ赤にした彼が映った。彼は熱心に草を引っこ抜いている。
「……んー?」
「ど、動じねえ」
「いつもの〝先輩〟は?」
「外しちゃだめすか?」
「べつにいいよ。やまとの先輩じゃないし」
「くっそ全然動じねえ……」
照れ臭い気持ちを必死に隠しただけだ。こんなときくらい、先輩の余裕を見せたい。ぶつぶつ言っている後輩に言葉を返すことはせず、ただひたすらに草を抜いた。
「やえちゃん」
びっくりして顔を思いっきり上げてしまった。恥ずかしい、ぜったいばれた。
「やえちゃん?」
あちらも、え? という表情でこちらを見てくる。見ないでほしい、土まみれの手で向こうの目を覆い隠したい。
「そんな反応されると思わなかった」
「呼び方いや」
「やえちゃん?」
「ちゃん付け無用!」
「やーえちゃん」
胡散臭い笑みで、ずいずい寄ってくる。避けたいけど、すぐ後ろには壁があった。くそ、不利だ。逃げられない。
「やえちゃん、あのさ、今度俺と、ここ以外の場所で会って」
突然の要望だった。ここ以外の場所、というのは、もちろん学校の中でもないのだろう。
「む、むり」
「なんで」
「いそがしい」
やまとの、真っ直ぐな二つの瞳がわたしを射抜く。こいつは〝先輩〟も敬語も忘れてしまったらしい。
「ずっと先でもいいから」
「ずっと先も忙しい」
「はあ? 無理」
「こっちも無理」
「やえちゃんの後輩に、吹部のスケジュール聞いとくわ」
「はあ? 意味わかんない」
「ねえ、俺と、ここじゃないとこで、二人で会いませんか」
壁に背中がぺたんとついて、完全に逃げ道を絶たれた。二人で、と念まで押されてしまった。この男の計算高さを前に、わたしはなす術もない。わたしの部活のスケジュールを知ってどうするんだ。追いかけ回す気か。
「おねがい、やえちゃん」
「……や、やだ」
「どうしても?」
「……どうしても」
「別に、やえちゃんのタイミングでいいんすよ。ずっと先つって、逃げられそうなのがいやなだけで」
引き際が上手い。無理矢理じゃないから、突っぱねられないではないか。それに、さっきからだんだんと眉が下がって、瞳も心なしかうるうるしている。気のせいだろうか。気のせいならばいい、本気で泣かれたらどうしよう。たぶん泣かないとは思うけど。……泣かないよね?
「そ、そんなに?」
「そんなにっす。こんなに喋るの、やえちゃんだけっすから」
「……よく喋るから、遊びたいの?」
「言わせます?」
つっついたら、藪から蛇が出てきてしまった。草を抜く作業を再開させる。
「八重でいいから、ちゃん付けやめて。そしたら」
「遊んでくれるんすねわかりました。八重で」
「まだそこまで言ってないんだけど……」
「でもそうっすよね?」
彼の瞳に涙はもう浮かんでいない。演技派だ。かわりに瞳を輝かせている。そんなにきらきらした目で見られてしまったら、そうだとしか言えそうにない。本当のことだったし、「まあ」とだけ返すと、へへへ! と彼が笑った。
その笑い方ひとつで、わたしの小さな意地や照れが全部吹き飛んでしまいそうだ。
「やまと、もっかい笑ってみて」
「え? あははは」
「そうじゃなくて」
「どう?」
もういいよ、と言うと、「えっなんですか! 気になるじゃないすか! 教えてくださいよ!」と喚かれた。だるい後輩だ。
ただ、やまとは、わたしがわたしのペースを保っていても気にしない。急かそうともしない。横に座って、へへっと笑っているだけだ。
ここじゃない場所で、か。来週の日曜日、わたしの部活は休みだけれど、彼のご予定はどうだろう。訊いたら彼はまた、瞳をきらきらさせるだろうか。約束を取り付けたら、へへっと笑ってくれるだろうか。その様子を想像するだけで、心がへんな音を立てる。
「やまと」
「はい?」
「……さむいね。教室帰ろっか」
日曜のことを言おうとしたけど、あと一歩の勇気が湧いてこず、話を逸らしてしまった。一つ上なのに情けない。隣に座っていた彼が、ブロックから立ち上がってわたしの目の前にしゃがみ込んだ。
「へへ、やえ」
「ん?」
「来週の日曜日、俺、ひまなんすけど」
「え」
「八重は? 空いてる?」
「は、はい」
「じゃあ決まり。どこで遊ぶかとかはまた追々。教室戻ろ」
先に立った彼が手を出してくる。軽く握ると、その手を引っ張られ、わたしも立ち上がった。
ぷらぷらと手を繋がれたまま、校舎を目指す。彼の手はすごく冷えていた。わたしのせいだ。ちょっとでも温まるように、と力を込める。
「へへ、俺、キモくないすか」
「きもくないでしょ」
「けっこう頑張ったんで、褒めてください」
「えらいねえ」
わたしがそっけないのも、照れているからだとばれているはずだ。彼もあの場所に訪れるようになってすでに半年は経っているから、お互いの機微は手にとるようにわかる。
ちょっとこそばゆいけど、けっこう悪くない。へへっ。
ずるっこい男、安斎大和!