キングオブリングス35×12
リビングに寝転がり幼児向け番組を眺める大五郎。そして息子たる大五郎を眺めるは母の朝子であった。朝子は苛立ちまぎれにかさついた唇を開く。
「あんたねぇ……」
「なに」
大五郎は未だ独身の35歳の実家暮らしであり、給料も平均以下で、顔や雰囲気も童貞っぽく、結婚する当てが無さそうな感じなことから、これから母の言わんとする事は大体の予想が付くだろうが、つまりはそう言う事であった。
「そげなん見とらんと、いい加減結婚せないかんよ」
「やだ」
「やだじゃないでしょ! お母さんもういくつと思っとんの?」
「しらん」
「もう70よ。あんたいくつになった結婚すんね?」
「興味がない」
「あんたねぇ……」
テレビ画面で踊る犬共から目を離さないまま、大五郎は不敵な笑みを作る。
「お言葉ですがママ上様」
「なんがママ上様ね」
「ママ上様。僕は主体としての自己を見失いたくないのです」
「また訳の分からんこつ……」
「僕は生命である以前に、認識主体なのです。実存として世界を包括し、世界に包括されているのです。その真理を片時も忘れたくはないのです」
「だから何ね。せからしか」
普段は「お母さん」と呼んでいる母を「ママ上様」と呼んでいる辺りふざけてはいるが、大五郎の言葉に嘘偽りは無かった。
「僕は怖いのです。在り来たりな幸福に囚われて大切な事を忘れてしまうのが」
「どうでもよか。そげなん」
「いえ、僕にとって一番肝心なことです」
「あんたね、寂しいよ。年取って一人になったら。今はいいかもしれんけど。お母さんもずっとはおれんのよ? 将来寂しい思いするばい?」
「孤独こそが人生の本質です。目先の幸福の為に本質から目を背け、死の恐怖すらも麻酔しようとする欺瞞をこそ、私は恐れるのです。私は孤独と死に向き合いながら生きていきたいのです」
「また訳のわからんこつばっかいうて。自分に言い訳しとるだけやないの」
「違います」
天に溜息を噴き上げ、苦虫を噛み潰す母。
「……どこで間違えたかねえ」
歌のお姉さんへと手を振り返し、大五郎は立ち上がる。
教育の敗北に項垂れる母を残し、二段飛ばしに階段を駆け上がって行く。
「あー彼女欲しい」
独り言がつい出てしまった。もう階段を上がり切っていたので母には聞かれていないだろうが、大五郎は軽く赤面する。
誤魔化すようにパソコンに向かい、やりかけのエロ同人ゲームの攻略を再開する大五郎であった。
◇
次の日、月曜日の朝。大五郎は職場の物流倉庫に出社して点呼を終えた。朝礼の後すぐに体操が始まる。ウォイッチニーサンシー。ニーニーサンシー。数多の腕が揺らめき、円を描いていく。
閃き。
鈍い銀の閃きがあった。
遅れて脳が、前で体操する中村さんの薬指に嵌められた結婚指輪の輝きだと認識。
大五郎は不安に駆られるように辺りを見回す。すると右隣列の二つ前の下請けの知らん人の薬指にも結婚指輪を視認してしまう。三つ前も。右斜めの方にも。あっちにも。こっちにも。続けざまにあちこちで鈍く輝くリングスを認識してしまう。それらはこれ見よがしに人々の左手薬指を締め付けていた。大五郎を責め苛むように。いつもはそんなに気にならなかったが、どういうわけか今日は不愉快極まりなかった。
大五郎は、実際そんなに結婚したいという訳では無かった。そもそも結婚出来る程の収入が無い訳だし、見た目も雰囲気も会話力もすべての要素が女性にモテようがない水準であることも自認していた。加えて大五郎は長きに渡る童貞生活の結果として、非モテとしての自我を確立してしまっていた。だから万が一にも自分がモテている事態は想像できなかったし、そうなってしまったら最早自分ではない気すらした。女性と付き合っている自分や、女性と結婚している自分や、ましてや父親になった自分などに至っては想像する事すらおこがましかった。また母に打ち明けた孤独や死と向き合っていたいとか、そういうよくわからん哲学的な想いも本心からの言葉であった。特に結婚やら出産やらによって生きる苦痛を誤魔化せるシステムは、自己の主体性を崩される恐怖があり、そこはかとなく不気味に感ぜられるのであった。そういった感じで大五郎には結婚できない理由も結婚したくない理由もいくらでもあったが、結婚したい理由はそんなに見いだせなかった。大五郎にとって、結婚とは麻薬の様なものであった。それもかなり入手困難で高価なタイプの麻薬である。社会環境や事情によっては活用せねばならない可能性は思い当たるが、自分から好き好んで嗜みたい訳では無かった。
……幸か不幸か、大五郎は何もしなければまずモテないタイプの男であり、順調に非モテ街道をひた走りに走り続け、彼女も出来ず、結婚もせずに済んだ。それはそれで上等ではあるのだが……それはそれとして、結婚したくても出来ないという劣等感は大五郎の精神に真綿のように纏わりつき、事あるごとに締め付けて来るのであった。そう言う意味で大五郎は「消極的には」結婚したい状態にあると言えるのかもしれない。一昔前のように結婚しているのが当たり前で未婚に対する風当たりが強く、お見合い婚も活発であった頃なら案外大五郎もなし崩し的に結婚しており、与えられた役割に合わせる形で彼なりに適応していけたかもしれなかった。しかし今は一昔前では無く令和であった。
もしかしたら自分は、負け犬の遠吠えをしているだけではないのか。本当は結婚したいのに、結婚出来るだけの能力がないが為に、努力が面倒くさいが為に、努力が裏切られる事を恐れるが為に「すっぱいぶどう」のような認知の歪みが発現しているだけではないのか。母の言うように、自分に言い訳をしているだけではないのか。指輪を見ないように俯きながら、強烈な劣等感に力なく腕回し体操をやりながら、大五郎には自分で自分が分からなくなっていくのであった。ウォイッチニーサンシー。ニーニーサンシー。
しかし、今一度自分の心に聞いてみてもそんなに結婚したくないというのもそれはそれで確かだった。女性と付き合いたいともそんなに思わなかった。もし付き合う事が出来ても、いつ振られるかとビクビク怯える自分の姿が容易に想起されるのであった。結婚しても、安月給をイビられゴミとして扱われる自分の姿が想像に難くない。自分の人生はどう転んでもろくでもないとしか言いようがないではないか。ウォイッチニーサンシー。ニーニーサンシー。ウォイッチニーサンシー。ニーニーサンシー。
体操が終わり、タイヤを検品していく作業が始まった。いつもなら無心でやれる単純作業であったが、今日はどうにも調子が悪い。何を考えても劣等感に行きついてしまう。気付けば集中が切れている。今日が月曜日な事も大五郎の鬱屈に拍車をかけた。
それにしても……母のお説教は毎度の事なのに、いつも通り軽くあしらってやった筈なのに、どうしてこんなに心が重いのか。
もしかしたら、35という微妙な年齢が悪さをしているのだろうか。ホルモンバランスとかもあるのかもしれない。
あるいは、これが40くらいになったら、一週回って苦しまなくて済むのかもしれない。あるいは苦しみがより一層深まるかも知れない。もしそうだとしたら、嫌だなあ。
……取り留めも無く揺れ動く懊悩の海に溺れるままに、大五郎はミスってしまった。うっかり検査工程をすっぽかしてしまったのだ。「またかよお前。……いい加減学習してくんない?」年下かつ既婚者である鳥井に見下すような叱責を受けてしまった。しかもため口であった。年下なのにため口であった。流石に内心傷ついた大五郎だったが、面倒を起こしたくなかったのでおくびにも出さず平謝りを続けた。「謝んなくていいからさ。ちゃんとやってよ」そんなため口叱責の最中にチラと鳥井の左手薬指に目をやると、やはりそこには結婚指輪がスッポリとハマっているのであった。「おい、ちゃんと聞いてる?」(うるせえなあ偉そうに)大五郎は鳥井が元々嫌いだったが、益々嫌いになった。(お前だって前ミスっただろ)それはそれとして、自省はしなければならなかった。
休憩時間。無気力に座り込む大五郎の目に、また誰か知らん人の婚約指輪が映った。やはり、今日はどうにも気になってしまう。目が行ってしまう。大五郎は開き直って、手あたり次第休憩室の人物の左手薬指に目をやって結婚指輪の有無を確認して行く事にした。ナシ。アリ。ナシだけど結婚してる。アリ。ナシ。ナシ?ナシ。ナシだけど結婚してる。アリ。ナシ?
自ら率先して傷ついておくことで不意打ちによる致命傷を回避できる気がしたのであった。
……とにかくミスらない事だ。鳥井は午後からは別のレーンだから、そこは良い点だ。落ち着いていこう。とにかくミスらない事だ。ミスらない事が一番肝心なんだ。
◇
何とかミスらずに仕事を終え、帰路につく大五郎であったが、集中のし過ぎで神経がボロボロになっていた。気付けば、大五郎が駆る原付は牛歩戦術を取っておりアホほどスピードが出ていない。よっぽど自転車の方が速いくらいであった。疲れている時はいつもこうだった。無意識に運転速度が遅くなってしまう。
そして大五郎は帰り道に百均に寄って、そのまま帰った。
大五郎が買ったのは、英単語カードを纏める用のカードリングが12本入った奴であった。袋を開け、銀のリングを左手薬指に通してゆく。リングは指輪として作られている訳ではないので、当然ながらぴったりハマる訳もなくスカスカであるが大五郎は気にしなかった。むしろこれくらい大きい方が存在感があって、非実用的で、未開の部族っぽくていい気がした。うむ。いい感じだ。
ついでに余ったリングを全ての指に通してみる事に。これはいい。これはいいぞ。未開の部族感がすごい。……手を握ってみると、なんかメリケンサックみたいになった。実用性はないが、これも悪くない。
……そして大五郎は、全てのリングを一度右手に回収し、左手薬指へと集めていく。積み重なっていく。……すごいことになった。12本もの指輪が、第二関節の辺りまでアホほど積み上がって下品なまでに光りジャラついている。全く……重婚にも程があるだろう。困るなあこんなにモテちゃって。俺は何と罪な男なのだろう。バカげたことを考えているうち、大五郎は無邪気な自嘲に表情を歪ませているのであった。
「ハッハッハッハ! 俺様はングラム族の長、ダイゴローである!」
ダイゴローは魂の底から、堪らなく高揚していた。こんなに高揚するのは、17歳の時ドキドキしながらエロビデオ屋に入った時以来であった。そのくらい、目に映る全てが面白おかしくて仕方ないのであった。
「……結婚指輪が何だ。見ろ! 俺はお前らよりも大きい指輪を、こんなにたくさん左手薬指に通しているんだぞ? 特に鳥井お前だよ。お前の雑魚指輪は俺の指輪よりも小さい上に、一つしかないじゃないか。雑魚だお前は。雑魚なんだよ。さあ平伏せ。俺様の栄光の象徴たるリングの前に、平身低頭して媚びへつらうがよい。ヒーッヒッヒッヒッヒ!」
無論、大五郎にもバカバカしい児戯をやっているという自覚はあったが、その自覚がまた大五郎の気分をアゲアゲにアゲていくのであった。大五郎はそんな変なテンションのままリングをチャリつかせ階段を駆け下り、「ママ上様! 見よ! すごいでしょ!?」と洗濯物を畳んでいる母へと左手の甲を見せつける。
母は驚いた表情を傾げていたが、息子の左手薬指にこれでもかと積み上がったリングを眺めているうち、全てを悟った。
そして寂しい笑み零し、指輪から目を背けるようにそっと洗濯物に顔を落とすのであった。