別れ道
夜明けとともに、製糸工場の慌ただしい一日が始まった。寄宿舎での支度、朝食を済ませると、鐘に追われるように女工たちは皆持ち場に散ってゆく。
蒸気が充満する工場で、コンスタンスとシモーヌは今日も並んで座り、仕事に励んでいた。熱湯に浮かぶ繭から糸口を探し、二十本を束ねて一つの糸とする。
「あっ!」
シモーヌが悲鳴を上げた。
紡ぎだしていた糸が切れ、上部の滑車が空回りする。
慌てて熱湯に浮かぶ繭から糸を取ろうとするが、手が滑って熱湯に指が入る。
「痛っ!」
「シモーヌ!」
コンスタンスが慌ててシモーヌの手をみようとすると、後ろから怒鳴り声が響いた。
「シモーヌ! 何をやっているんだ!」
反射的に立ち上がって、シモーヌは両手でスカートを握りしめた。
でっぷりとした巨体を小さめのスーツに押し込んだ男が、脂肪のたっぷりついた太い指でシモーヌを指さし、顔を赤らめて怒鳴りけた。
「今月何度目だ! お前の失敗でこの糸は台無しだぞ!」
「ごめんなさい、ブノワさん。指がうまく動かなくて」
「お前はもう今日はいい! 医務室に行け! 医療費は給金から差し引くぞ!」
コンスタンスが思わず椅子から立ち上がった。
「そんな! お給金には関係ないはずです!」
「やめて、コンスタンス」
抗議しようとしたコンスタンスを、シモーヌが押しとどめた。顔が恐怖に歪んでいる。コンスタンスは口を閉じた。
「まったく、もう、大損害だ!」
文句を言いながら遠ざかる工場長を二人は手を取り合って黙って見送った。
「コンスタンス、言い返したりしたら、もっとひどい目にあわされちゃう」
「そんな」
怯える友人を慰める言葉を見つけることが出来ず、肩を落として医務室に向かう小さな背をコンスタンスは唇を噛んで見つめた。
その夕方、工場の一角に女工たちが集められた。週に一度の成績発表だ。明日の休みを前に、一週間の仕事から解放された五十人ほどの女工たちは賑やかにおしゃべりをしながら集まった。
工場長ブノワ氏は、木箱を積み上げたお立ち台の上で、ずらりと二重、三重に並ぶ女工たちの姿を満足げに何度も頷いて見回すと、大声で宣言した。
「今週の一等者は、コンスタンスだ。一日に三百グラムの糸量を出した。これはすごいぞ!」
甲高い歓声があがる。まだ入って一ヶ月にもならないコンスタンスが一等を取ったのだ。女工たちは驚き、口々にほめそやした。
「すごい! コンスタンス」
「やったね!」
方々から肩を叩かれ、ふらつきながらコンスタンスは前に出る。
「よくやったな。ほら、賞金だ。週末美味いものでも食べてこい」
満面の笑みのブノワ氏が差しだす封筒に手を伸ばそうとして、コンスタンスはぴたりと止まった。手を握りしめ、スカートをきつくつかみ、意を決してきつく工場長を見上げた。
「ムシュー・ブノワ、表彰いただきありがとうございます。賞金を頂く代わりに別のお願いをさせていただけませんか」
粗末な女工服を着た小さな娘に、しっかりとした口調でそう言われ、ブノワ氏は面食らって肉付きのよい顔に埋もれた小さな目を何度もしばたたいた。
「は? なんだ? 賞金要らないとは本気か? まあ、聞くだけは聞いてやるが」
「シモーヌの指の治療費を給金から引かないでいただけませんか」
女工とは上目遣いで怯えながら話すものとばかり思っていたブノワ氏は呆気にとられながら答えた。
「何を馬鹿な。あいつは何度も医務室に行って薬を使っているんだ。他の女工はそんな頻繁にいかない。特別に薬を良く使う奴からその費用を差し引くのは当然だろう」
鼻で笑って出ていこうとするブノワ氏に、コンスタンスは良く通る声ではっきりと言った。
「いえ、シモーヌはこの工場で長く働いています。長く働けば働くほど指が悪くなるのは当然のことです。仕事上の怪我なのですから、その治療費は工場が持つと、そういうお約束になっているはずです」
工場長は眉を跳ね上げた。怒りに上気した顔でコンスタンスを怒鳴りつける。
「シモーヌの医療費はそんな約束の範囲にはない! わしはちゃんと全部帳面に記録しておるんだ!」
「では、その帳面を私に見せてください」
背筋を伸ばしたまま、表情も変えずコンスタンスは言った。
「何を言っとるんだ。工場の帳簿など女工が見てわかるわけないだろう!」
憤怒を隠さず、あらん限りの大声でそう怒鳴りつけるとブノワ氏は去っていった。女工たちが怯えて、手を取り合って固まっていた。
居心地の悪い沈黙の中、コンスタンスは唇をかみしめ、両手でスカートを握りしめた。
***
消灯までの自由時間、寄宿舎の大部屋に居づらくコンスタンスは外に出た。同僚たちのうかがうような視線、シモーヌの心配げな顔、声を落としているようでしっかりと聞こえる噂話。何もかもがコンスタンスの胸に重かった。
寄宿舎は塀と鉄柵で囲まれている。防犯のためというが、その実、女工が逃げ出すのを防ぐためであることは皆が知っていた。
手にした木の枝で、鉄柵を軽く叩きながら歩く。叩く場所を変えると音階とはいえずとも音の高低が楽しめた。
小さく歌を歌いながら歩いていると、鉄柵の向こうにふいに人影が見え、コンスタンスは枝を取り落とし、息を呑んだ。
泥棒かとおもった人影は彼女を見つけると、走り寄って鉄柵の向こうから手を伸ばしてコンスタンスの手首をつかんだ。
「ひっ」
叫んで助けを求めようと思っても、口に出せたのは小さなその声だけだった。絶望と恐怖に震えたとき、聞きなれた声が囁いた。
「コンスタンス、僕だよ」
目を見張って暗がりの人影を見つめる。
「ジャン=リュック!」
コンスタンスは鉄柵に飛びつくように、ジャン=リュックの両手を握った。
「会いたかった、ようやく見つけた。探した、本当に探したよ、コンスタンス」
「ああ、ああ、ジャン=リュック!」
喜びに張り裂けそうな胸を押さえ、コンスタンスは顔を振った。目に涙がにじむ。
「行こう、コンスタンス。金と宝石を用意した。二人で十分に暮らしていける。国境を越えて誰も知らないところで二人で暮らそう。新大陸に行ってもいい」
「ジャン=リュック!」
ジャン=リュックと二人で暮らす。
それはどんな素晴らしい夢だろう。
コンスタンスは、一も二もなく彼に付いていこうと、すぐに行きましょうと言おうとした。
しかし、次の瞬間、顔から表情を消し彼女は身を引いた。
「コンスタンス?」
不審げに声を落としたジャン=リュックに、コンスタンスは首を振った。
「行けません」
「コンスタンス?」
「ジャン=リュック、私、行けません」
眉を寄せ、顔を悲痛に歪め、コンスタンスは首を振った。両手を力なくジャン=リュックから離して後ずさる。
「ジャン=リュック、あなたが大好きです。今、すぐにでも一緒に行きたい。でも、ここには私を助けてくれた人がいるのです。彼女を置いて出ていくことはできません」
「コンスタンス」
何かを言おうとするジャン=リュックに首をふり、地面を見て、コンスタンスは吐くように声を絞り出した。
「ねえ、ジャン=リュック、あの日、私が伯爵家から追い出されたあの雨の日、ルテティアの街角で行く場所もなく、どうすればいいかもわからず座り込んでいた私を助けてくれた人がいるんです」
感情が高ぶり、声が震えて、高くなる。
「私が生きてきて、今までで一番つらかったあのときに、死んでしまいたくなるほど惨めでたまらなかったあの時に、私を助けてくれたのはあなたではなかったのです!」
絶句したジャン=リュックは、呆然と恋人の名を呼んだ。
「コンスタンス」
決然とコンスタンスは顔を上げた。
「ジャン=リュック、ここまで私を探して会いに来てくださってありがとうございます。私はあなたと一緒には行けません。私を助けてくれた恩人のために、できる限りのことをしなくてはいけないから」
暗闇に呆然と立つ恋人に、コンスタンスは優しく微笑みかけた。
「ねえ、ジャン=リュック、あなたが教えてくださったように、女工はひどい扱われ方です。ちゃんと働いた分のお給金が手に届くように、私はできる限りのことをしようと思うのです」
鉄柵を間に挟み、若い恋人たちは向かい合う。
暗闇の中、お互いの顔は良く見えなかった。
コンスタンスは少しでも記憶にとどめようと、自分の目に力を込めて恋人を見つめた。
「ありがとう、ジャン=リュック。さようなら。どうか、お元気で」
そう告げて身を翻すと、コンスタンスは振り返らずに寄宿舎に戻った。




