夜に想えば
のどかな昼下がり、二人の娘が緑の深い小高い丘を歩いていた。見下ろす先には、赤い煉瓦造りの大きな工場が四棟並んでいた。
「コンスタンス、ここで少し休まない?」
栗色の髪の娘が、金髪の娘に声をかけた。
二人とも同じような年ごろで、似たようなくたびれた服を着ていた。
「そうですね、シモーヌ、お昼休みが終わるまでもう少しあるから大丈夫ですね」
空を覆うように大きなプラタナスの木陰に入り、そのまだらに白い幹に背を預けて二人は座った。大きな葉の隙間からまぶしい光の塊が地面に落ちる。
「ああ、疲れたなあ。毎日座りっぱなしで仕事してたら本当に嫌になっちゃう」
シモーヌと呼ばれた娘は、地面に座ったまま大きく両手を上に伸ばし、上体を左右に曲げた。
「本当にこの仕事、肩が凝りますね」
軽く笑ったコンスタンスに、シモーヌは顔をしかめた。
「私、午前に二回も糸切らしちゃって、大目玉くらっちゃった。コンスタンスはあっという間に上手くなったね。今週、表彰されるんじゃない?」
「表彰されたらどうなるのですか?」
小首をかしげるコンスタンスに、シモーヌは笑って耳に口をつけて囁いた。
「あのね、それはね、金一封!」
最後の大きな声に、コンスタンスは驚いて青い目を見開く。
「そうなのですか? もらえたら素敵ですね。ねえ、もし表彰されたら、シモーヌ、一緒に買い物に行きましょう。あなたに何かプレゼントさせてください」
コンスタンスの言葉に、シモーヌは驚いて両手を顔の前で振る。
「何言ってるの! そんなことしちゃ駄目よ。お金はちゃんと貯めて少しでも早くこんな工場辞めなくちゃ。コンスタンス、あなたは特に何も持ってないんだし」
「でもシモーヌ、あの雨の日、ルテティアの街であなたが声をかけてくれなかったら、私、道端で死んでいたかもしれないのです。だから、せめて何かお礼をさせてください」
コンスタンスは、シモーヌの手を両手で握って、彼女の顔を覗き込んだ。重ねられた二人の手は、どちらもぼろぼろに痛んでいる。製糸工場で働く女工の常だった。
「駄目よ、駄目! あの日はたまたま休暇日に、工場の皆で乗合馬車を使って買い出しにいっただけなんだから。誰だって道端に座り込んで泣いてる同じぐらいの歳の娘を見たら声をかけるよ」
「でも」
まだ言おうとするコンスタンスにシモーヌは首を振った。
「本当に表彰されるかもわかんないし、この話はここまで! ここまで! ほら、鐘が鳴った。工場に戻らなきゃ」
立ち上がった二人は、スカートの土を払うと足早に緑の丘から降りていった。
***
とっぷりと日も暮れた寄宿舎の大部屋では、かしましく女工たちが噂話に励んでいた。ベッドの上に身を投げ出し、顔を寄せ合ってくすくすと、あるいは大声で笑いあう。衝立もカーテンもない殺風景な大部屋にベッドが二十ほども並んでいた。
消灯までのわずかな時間、気が合う者同士仕事で溜まり溜まった憂さを晴らすべく、彼女たちはわざと大きく騒ぎ立てていた。
「シモーヌ、指、痛いでしょう。大丈夫?」
「ありがとう、コンスタンス。いつものことだもの、平気よ、平気」
コンスタンスのベッドの上で二人は腰を掛けて、あかぎれだらけになった手の手入れをしていた。ひび割れた皮膚の奥から滲む血が、いかにも痛々しかった。
長く働いているシモーヌの指の状態は悪く、失敗を犯しやすくなっていた。失敗すればそれを補うために、焦って熱い湯に指を突っ込むことになり更に負担がかかる。悪循環だった。
粗悪なクリームを分け合って、指先の手入れをしていた二人のベッドに、突然、一人の女工が倒れこんだ。驚いて二人は叫び声をあげる。
走り寄ってきた女が、ベッドに倒れこんだ黒髪の女の胸倉をつかみ叫んだ。
「返して! 返しなさいよ! ミレイユ、あんた、あたしのハンカチ盗んだでしょ!」
「いちゃもんつけんじゃねえよ! 誰があんな古臭いハンカチなんか盗むものか!」
癖の強い黒髪の女が、胸倉をつかみ圧し掛かる女の腹を思いきり蹴り飛ばす。
見ていた女工たちが一斉に甲高い悲鳴を上げ、大部屋の中は大騒ぎとなった。
「何すんの! この盗人!」
「証拠もないのに人聞きの悪いこと言ってんじゃねえよ!」
ベッドから床に転げ落ちて取っ組み合いと続ける二人から離れて、コンスタンスはシモーヌに言った。
「寮母さんを呼んでくる」
「やめて、コンスタンス」
部屋から出ていこうとするコンスタンスの服を掴み、シモーヌは必死に首を振った。
「シモーヌ、どうして?」
「あ、あのね、ミレイユは私を助けてくれたの」
「ミレイユが?」
シモーヌはコンスタンスの腕を引き、部屋の隅に連れていく。大部屋の女たちは取っ組み合いの見物に忙しく、彼女たちを見る者はいなかった。
「ここに来てすぐのとき、私、すごく派手な人たちの集団にいじめられるようになって。お給金、前払いでもらってたから出ていけなかったし、本当に毎日息をするのもつらくて、死んでしまおうかと思ってたの。でも、ある日、囲まれていじめられてるときに、ミレイユがそのリーダーみたいな女を殴り飛ばしてくれて」
思わずコンスタンスはシモーヌの手を両手で強く握った。肩越しに振り返っても、ミレイユの姿は人垣で見えない。
「ミレイユにとっては単なる気まぐれだったんだと思うけど、でも、ミレイユがいなかったら私、死んでたと思う」
俯いて小さな声でそう言ったシモーヌは、顔をあげてすがるようにコンスタンスの両腕を掴んだ。
「あのね、コンスタンス。人のもの盗むのは良くないんだけど、悪いことなんだけど、ミレイユは一番しんどい時に助けてくれた人だから。だからね、お願い、寮母さんを呼ばないで」
寄宿舎では頻繁に盗難が起きていた。金目のものはもちろん、歯ブラシやコップ、指貫など些細な日用品までしょっちゅう無くなるのだ。ミレイユに盗癖がある、ということは皆が知っていることだったが、すべてがミレイユの仕業とは限らなかった。
消灯の鐘が鳴り、ミレイユ達の取っ組み合いは決着がつくこともなくなんとなく終わった。女工たちは慌てて自分のベッドに向かった。
***
暗い大部屋のベッドに横たわり、コンスタンスは天井を見ていた。そこここで健やかな寝息や、軽いいびきが聞こえる。固いベッドの上で寝返りを打った。
眠れない。
体は疲れ切っているはずなのに、目が冴えて眠れなかった。コンスタンスは音を立てないように注意深く起き上がると、ベッドの横にひざまずいた。
首からペンダントを外し、鎖の先に下がるロケットの蓋を開けてベッドにそっと置く。
暗闇で良く見えないが、そこにあるはずの聖女イネスの肖像に向かい、手を組んで彼女は祈った。
ド・リール伯爵家の屋敷でも、彼女は良く夜に祈っていた。数多くの使用人がいる家で、彼女はとても孤独だった。
物心つくまえに母を亡くし、父は家庭を顧みず、五年前には若い妻を迎えた。伯爵夫妻に疎まれている令嬢に、あえて近寄ろうとする者はいなかった。
深夜の寝室で亡くなった母を想い祈りを捧げる。それがコンスタンスの習慣だった。どうか私を見守ってくださいと、聖女の肖像に願った。慈愛、謙虚、誠実、その教えを守れば、聖女は必ず見守ってくださる。心に住む亡母と聖女を頼りに彼女は強く生きてきた。
製糸工場の寄宿舎に住むようになってから、彼女が祈ることは一つ増えた。義母が言ったように、もし本当の母親が別にいるのであれば、その人が健やかであるように、いつか会えるようにとコンスタンスは静かに願った。
父、義母、そして何よりも婚約者だったジャン=リュック。コンスタンスは彼らのためにも祈った。もう帰ることはない過去の日々。つらい仕事や、食事、住処の心配などする必要もない、豊かで安穏とした日々。無くしたものを惜しむ気持ちはなかった。コンスタンスは今、女工としてここで自分の力で生きていける。
隣のベッドを振り返る。シモーヌの体の影が見えた。彼女の指が良くなるようにと願い、窓を見上げた。開け放された窓からは心地よい冷気が流れ、黒くざわめく木々の向こうに星空が見えた。その瞬きは子供のころからコンスタンスが見上げていたものとまるで変わらない。
十年後にもやはり同じように星を見上げるのだろうかと、彼女は切なくも不思議に思った。十年後には一体どこで何をしているのだろう。十年後どころか、工場との契約が終わる一年後のことすらわからない。黒い夜空に光る星々は、何万光年前かの光を優しくコンスタンスに降りそそいだ。
***
緑がまぶしい初夏の庭園に、紳士淑女が集まっていた。レースの美しい日傘をさし、あるいは屋根のある東屋に集まり、目に華やかな流行のドレスを身にまとい、笑いさんざめきながら彼らは主役を待っていた。
庭にこしらえられた小さな舞台の上に、ジャン=リュックと、彼に手を取られたコンスタンスが上がる。二人ともまるで緊張を隠せない面もちで、お互いの目を見つめあう。
少しだけ地面から高くなった舞台から周りを見れば、笑顔を浮かべた列席者たちと、今を盛りに咲き誇る色とりどりの薔薇が見渡せた。
ジャン=リュックは舞台の上で片膝をつくと、コンスタンスの手を取った。心臓が高く鳴る。周りにいるはずの観客のざわめきも、木立のざわめきも何一つ聞こえなくなった。彼と彼女、どちらの手が震えているのか、それはもうわからない。
「コ、コンスタンス・ド・リール、ぼ、僕と結婚してください」
「は、はい、お受けします、ムシュー」
高く上ずった声のまま二人は何とかそれを言い終えた。
周りから大きな歓声と拍手が起きる。
二人は手を取り合って列席者に礼を述べた。
吹き渡る風が、木々の梢を音高く揺らし、鳥の鳴く声がする。
抜けるような青空に、白い雲がたなびいていた。
***
目を覚ましてコンスタンスは自分が泣いていることに気が付いた。部屋はまだ暗い。夜明けには程遠い。暗い天井を呆然と眺め、涙にぬれる顔を両手で覆い隠した。
嘘だ。
嘘ばっかり。
伯爵令嬢だった生活に未練がないなんて、ジャン=リュックの幸せを祈るなんて、全部嘘だ。
こんなにも前に帰りたい。
何事もなかったように、婚約式をしてジャン=リュックと結婚したかった。
なぜこんなことになったのだろう。
私が一体何をしたというのだろう。
つらい。苦しい。
誰か助けて。
枕に顔を押し付け、声を殺してコンスタンスは泣いた。