花に嵐
初夏の日差しがきらめく薔薇園で、コンスタンスは婚約者のジャン=リュックと二人で歩いていた。コンスタンスの背を波打つようにおおう豊かな金色の髪を、風が軽やかになびかせる。黒い目をまぶしそうに細めてジャン=リュックはそれを見た。
「ねえ、コンスタンス。いよいよ来週が私たちの婚約式ですね。いいお天気になれば良いのですが」
ジャン=リュックは自分の右腕の上に置かれたコンスタンスの手を左手で軽く握った。頭一つ低い位置にある婚約者の顔を覗き込む。
「本当に。薔薇もちょうど見ごろです。お庭でのお式ですから、晴れるといいですね」
コンスタンスは強く祈りを込めて微笑んだ。
花が咲き乱れ、緑豊かな庭園を並んでそぞろ歩く絵にかいたような幸せな若い婚約者たちだった。
庭木から下がる枝を何気なく片手で引っ張り、ジャン=リュックはためらいながら口を開いた。
「コンスタンス、ねえ、その、君の父上と母上は大丈夫だよね? いらっしゃるよね?」
顔を曇らせた婚約者を安心させるように、コンスタンスは笑って頷く。
「ご心配なさらないで。お父様も、お義母様も、私を送り出すまでは家族としてド・リール伯爵家の体面にあった恥ずかしくはない対応をしてくださるでしょう」
天気の話と同じ明るい口調で、笑みを崩さずコンスタンスはそう言った。
ジャン=リュックは婚約者の手を握り、何度も小さく頷いて言葉を続けた。
「そうだね、そうだよね。僕の両親は君がその、あの、ご両親から疎まれていることを知らないから。ド・リール家とお近づきになれると思って僕たちの結婚を進めているんだ」
ばつが悪そうにジャン=リュックは唇を噛み、拳で木の幹を何度も叩いた。
「だから結婚式が終わるまでは、君がド・リール家で大切にされてる令嬢だと、思わせておかないといけない。君の父上が後妻に産ませた子供たちのせいで君が邪険にされていることなんて、知られない方がいい」
ジャン=リュックはコンスタンスの正面に立ち、両手を広げて真剣に言った。
「僕はド・リール家なんてどうでもいいんだ。コンスタンス、何より君が大切だからね。大体もう、貴族がどうとかいう世の中ではないんだ」
コンスタンスは未来の夫に優しく微笑んだ。
「そうですね、ジャン=リュック。あなたはいつもそう仰いますものね。もう貴族の世界ではなくて、資本家がこれからは強くなるのだと」
我が意を得たりと、ジャン=リュックは何度も頷いた。
「そう! 先祖の残した領地やら爵位やらだけで威張り散らしているような貴族は、何の役にも立たなくなる」
ぐっと拳を強く握ってそう言い切ったジャン=リュックは、一転してため息をつくと、両手で黒い髪を掻きまわした。
「でもね、コンスタンス。資本家も酷いんだよ。労働者をこき使って、だまして、賃金をまともに払わないんだ。例えば、住み込みだったら寮費、仕事で怪我をしたときの塗り薬代、作業で失敗したら仕損じの材料費。そんなもの、もともと賃金に含まれているはずなのに」
いらいらと彼は爪を噛んだ。
コンスタンスは心配そうに眉をひそめる。
ふと顔を上げると、空の向こうに黒い雲が見えた。雨が近い。
「結局貴族と変わらないんだ。人間はなんて腹黒いんだろう。どうしてできるだけ楽をして金を儲けようとするんだろう」
若い男は腹立たし気にそう吐き捨てると、気を取り戻したかのように表情を変えた。
「ああ、こんなことばっかり話して。僕はなんて馬鹿なんだろう。コンスタンス、ごめんね、つまらないことばかり言ってしまって」
優しく笑みを浮かべたままコンスタンスは首を横に振った。ジャン=リュックの右手を両手で包む。
「いいえ、もっとお話ししてください、ジャン=リュック。私はとても生真面目で熱血漢なあなたが大好きなのです。女だからといって難しい話はしなくていいだろうなんて言わないで」
ジャン=リュックは両目を潤ませるときつくコンスタンスの手を握り、自分の胸の前にまで引き寄せた。
「ありがとう。ありがとう、コンスタンス。そう言ってくれると嬉しいよ。君と結婚できるなんて、僕はなんてついているんだろう。ねえ、コンスタンス、僕はね、君と話をしていると、自分の中で考えがまとまるんだ。思ってもみなかった結論が出たり、新しい考えが生まれたりする。君といつまでも話をしていたいんだ」
コンスタンスの指の先に、ジャン=リュックは触れるか触れないかのキスをした。
「コンスタンス。僕は君と一緒に暮らすのがとても楽しみだよ。ああ、どうしてわざわざ婚約式とかしないといけないのかな」
「ジャン=リュック、私も待ちきれません。一日も早く結婚式をあげることができればいいのに」
まぶしい日差しの中、樫がつくる黒い木陰に隠れ、二人はそっと顔を寄せた。
***
婚約者を乗せた馬車を見送ったコンスタンスが、玄関からロビーに入ると、二階の廊下に続く大階段から義母リュシエンヌが降りてくるところだった。
「あら、コンスタンス。ちょうど良かった。あなたにお知らせがありますよ」
常に不機嫌な義母が妙に愛想よく笑いかけてくることにコンスタンスは違和感を覚えた。
「何でしょうか、お義母様」
警戒を見せないように慎重にコンスタンスは微笑む。
「ここでお話するのもなんですから、書斎に参りましょう」
片手に厚い書類の束を持つリュシエンヌは、もう片方の手でコンスタンスの二の腕を掴み有無を言わせず書斎に向かった。
書斎の中にコンスタンスを放り投げるように押し込むと、リュシエンヌは後ろ手で扉を閉めた。
「おい、どうしたんだ」
部屋の中央に置かれた大きな書卓に座っていたド・リール伯クロードが立ち上がった。中年太りの体型を巧みに仕立てられた服で若々しく見せていた。
「あなた、前々からしかるべき筋にお願いしていた調査が今日ようやく届いたのです」
明るく弾む声でそう言うと、リュシエンヌは赤を含んだ金の髪を揺らし、軽やかに夫に歩み寄った。彼女は夫より遥かに若く、義理の娘であるコンスタンスよりわずかに七年年長であるだけだった。
「これは聖マルグリット産院の記録です。ほら、これを見てください。コンスタンスが生まれた同じ日に女の赤子が死産しているでしょう? そしてこれが助産婦の証言です。子供を産んだはいいが、夫もなく、自分が食べることもろくにできない女がいた。捨てられるか、飢えて死ぬかどちらかに決まっている赤ん坊があまりに可哀そうだったので、死産した貴族の赤子の死体とその赤ん坊を交換したと」
あまりの驚きにコンスタンスは青い目を大きく見張って息を呑んだ。
「いいこと、コンスタンス。あなたはド・リール伯爵家の娘ではないのです。どこの誰とも知れない女が産院に産み捨てていったみなしごなのです」
勝ち誇ったリュシエンヌの宣言に、ド・リール伯が狼狽した。
「いや、しかし、その、それは本当なのか。リュシエンヌ」
鼻で笑ったリュシエンヌは、コンスタンスの顎を片手で乱暴につかんだ。
「ええ、本当ですとも。良く見てください、この顔を。コンスタンスは父であるあなたにも、弟妹である私の子供たちにもちっとも似ていないではありませんか。私はそれが前々から不思議でならなかったのですよ」
勢いよくリュシエンヌが手を離すと、コンスタンスはよろめいてその場に膝をついた。
「さあ、出ていきなさい! コンスタンス、今すぐここから、この屋敷から出ていきなさい! 二度と帰ってこないで」
扉を指さし目の前に立ちはだかる義母に、コンスタンスは哀願した。
「お義母様、待って、待っていただけませんか」
床についた両手と、声が震える。
「一週間後の婚約式、三ヶ月後の結婚式が終われば私はこの家から出ていきます。二度とお二人の邪魔はいたしません。どうかあと少しだけ、三ヶ月だけお時間をいただけませんか」
呆気に取られて立ち尽くす父にすがるような視線を送る。
「お父様、お願いです」
コンスタンスの大きな青い目からこぼれ落ちた涙が一筋、頬を流れた。
「コンスタンス」
歩み寄ろうとしたド・リール伯とコンスタンスの間に、リュシエンヌが立ちはだかった。
「コンスタンス、見え透いた演技は止めなさい。少し顔が良いからといっていい気にならないで」
冷たく言い捨てると、勢いよく背後の夫を振り返って叫んだ。
「クロード、あなたの妻は誰ですか! あなたの跡継ぎを産んだ妻は誰ですか!」
「そ、それはもちろん、リュシエンヌ、君だよ」
リュシエンヌのあまりの剣幕にド・リール伯は恐れをなしてそう言った。
「皆、皆、私を馬鹿にして! ドレスのウエストサイズをコンスタンスと比べてメイドが笑うのですよ! 私は二人子供を産んでいるんですよ? なぜ子供もいない小娘と比べられなければならないのですか! 日向で髪の手入れをしていたら、髪を日にさらして、色を抜いてまでコンスタンスのような髪にしたいのかと陰口を叩かれる。コンスタンス、あなただって裏でこっそり私の悪口を言っているんでしょう。私は知っているのです!」
リュシエンヌの怒りに怯えながらも、コンスタンスは必死に首を振った。
「お義母様、誤解です。私は決してそのようなこと言っておりません」
「うんざりです! もううんざりです! もうこれ以上は我慢なりません。私はもう五年も我慢をしたのよ!」
叫ぶリュシエンヌを止めることができるものは誰もいなかった。
「コンスタンス、今すぐ出ていきなさい!」
彼女は静かに言った。
「私が伯爵夫人です」
***
花の都に雨が降る。
首都ルテティアの石畳を足早に駆けてゆく人たちの中、コンスタンスは一人、足元を見ながら頼りなく体をふらつかせながら歩いていた。
目的の屋敷にたどり着いたときには、すっかり濡れ鼠になっていた。いつもの正面玄関ではなく、使用人用の勝手口に向かう。遠慮がちにノックをしても、誰も出てこない。仕方なく、やや強く繰り返し扉を叩いた。
「はいはい、どちら様」
乱暴に開けられた扉から顔をだした料理女が、ぞんざいにきいた。
「コンスタンス・ド・リールです。ジャン=リュック様にお取り次ぎいただけませんか」
「えっ? コンスタンス様?」
料理女は前掛けを両手で握りしめ、口を大きく開けてコンスタンスを見た。
いつも空気をはらんで大きく波打っていた金髪は、雨のしずくをぽたぽたと落としながら頭に、体に薄く張り付いている。服は料理女と大して変わらない粗末なものだった。
本当にコンスタンスなのかと疑った料理女も彼女の顔には見覚えがあったのか、慌てて奥へ下がっていった。
あまり待つこともなく、勢いよく扉が開き、ジャン=リュックが現れた。その姿を見た瞬間、コンスタンスの全身から力が抜けた。
「ああ、ジャン=リュック」
思わず彼女は、婚約者の胸に縋り付いた。
しかし、ジャン=リュックはコンスタンスの両腕を強くつかみ彼女を揺さぶった。
「コンスタンス! なんてことだ! 先ほどド・リール家から早馬が来た。あと三ヶ月、なぜ待てなかったんだ。父も母も怒り心頭だ。なぜド・リール伯爵家の令嬢の問題を言わなかったのかって。まずい、まずいよ」
コンスタンスは真っ青になった。唇が震える。
ジャン=リュックの目にも涙が浮かび、手が震えていた。彼は完全に動転していた。
「ああ、ああ、ジャン=リュック。どうすればいいの。ねえ、お願いです。助けて、私を助けてください」
ジャン=リュックが何かを言う前に、彼の後ろから恰幅のよい紳士が現れて二人を引き離した。
「何をしに来た、コンスタンス! 我が家の大切な息子をたぶらかしてくれおって!」
ジャン=リュックが目を剥いて食って掛かる。
「何を言うんですか、止めてください、父上!」
「いいか、ド・リール家の娘ではないお前と私の息子との結婚は許さん。二度と会うことも許さん。金輪際ここには姿を見せるな!」
父親はコンスタンスを片手で突き飛ばすと、息子の腕をつかみ上げ家の中に放り込んだ。
転ぶように水たまりの中に座り込んだコンスタンスの目の前で扉が乱暴に、音高く閉じられた。
「ジャン=リュック!」
吐くようなその叫びは雨の中に消えた。
花の都でただ一人。
コンスタンスは天を仰いで、涙を落とした。