隣人能見 その3
目を覚ますと、昨日と同じように少女は座っていた。Tは昨日と同じようにパンを焼いて食べたが、その際、少女に食事が必要かどうか聞くことはしなかった。煙が宙に舞い空気に溶け込むように、少女はTの日常に溶け込んでいた。まるで長年ともに過ごした夫婦のように。Tはそれに違和感を感じることはもちろんなかった。というよりも、晴れた日の空に太陽が存在することは疑わないように、夜の空に月が浮かぶことを疑わないように、Tにとっての日常であり、既に疑う疑わないの秤の上になかったのだ。
支度を終え、「行ってくる。」と水に言いTは部屋を出るとそこには隣人悪能見が彼自身の部屋の前にいた。水とのこれからで手一杯になり忘れかけていた能見との嫌な記憶が蘇ってきた。この男には一度厳しい折檻が必要だ、こいつの粘着質と気色の悪さはこいつ自身のために直さなければいけない。糞みたいな話で、それをやる義理は俺にはないがその貧乏くじを俺が引いてやるんだから感謝してほしいもんだ。まあ、こいつのことだから感謝なんて絶対しないだろうがな。
Tのなかで怒りが優越感と使命感に書き換えられたとき、まるでそれを待っていたかのように能見が話し始めた。「家の前で待ってるのは非常識だと私だって理解してます!そんな怖い顔しないでください。性に逆らえるわけがないでしょう。Tさんも僕だってそうだ、結局は自分の内に秘めた魔物には逆らえないものなんです。性とはつまり心の中にある伏魔殿なんです。私がこれに逆らえないのはしょうがないし、あなたが怒ることはまだしもすべてを否定するのはどうかやめていただきたい。これをを否定できる人間なんてこの世にただ一人として存在しない!言い切れます!それに隣人は仲良くするものでしょう?」
この話を聞いてTは腹を立て怒りに再び点火した。そして、この感情をどこか読み取られているような気がして隠し通すのも馬鹿馬鹿しくなってきたため怒りをぶちまけることに決めた。人とのトラブルは極論避けるこれをゆるがせにしなかったTとして「怒りをぶちまける」とは人生初のことだったかもしれない。「能見さん。あなたは諦めている。内なる魔物だなんてたいそうな表現をするから諦めざるを得なくなる。恐ろしいのでしょうが魔物とやらをちゃんと観察してみてください。そうすれば見えるはずですよ、体を大きく見せているだけの狐がね。自分の欲求に逆らえないなんてことはないんです。世の中の人は全員それを飼いならして生きて、そうやって社会を人間社会たらしめている。あんたのそんな考えは結局自分を諦めた負け犬の戯言です。」Tは普段より少し早口で言い終えた。「あなたは仲良し隣人なんて求めていらっしゃらない。真に求めているものはなんですか?」
「そうかもしれませんね、もしかしたらあなたの言うようにただの狐かもしれない。もっといえばとってもキュートな猫かもしれない。わたしはそんなことをこの世でだれよりも理解しています!あなたに講釈垂れてもれっちゃ困りますよ!Tさん、私が言いたいのはそんなことじゃないんです。それを僕が飼えないことをだれが責められましょうか。私の言う魔物の大きさがあなたの言う通り小さいとしても、それを繋いでおく鎖の大きさに違いがないと誰が言えましょうか。誰も私を攻める権利などないのです。魔物ってのは大きく分けると3パターンしかない!一つ目は魔物が傀儡になっている場合です。世の中のほとんどの人がこれに当てはまります。自分の好きなものに適度に情熱を燃やせる人だったり、世の中で善人と呼ばれる人もここですね。二つ目は私みたいな人々のこと。つまり内なる魔物の大きさは些末なもでもそれをつないでおく桎梏が小さいケースです。興味のあるものに異常な情熱を燃やし、自己中心的な考え方を持ち酷くなると軽い犯罪を犯したり、もっと酷くなると怒りの対称を殺したりする人のことで、一つ目にははるかに劣りますがこれも世の中には多数存在します。最後の一つは..内なる魔物が大きくすぎそれが制御できないケース。このケースはおもしろいもんで桎梏も異常に大きいパターンがほとんどなんですね。ほとんどの場合はその大きな魔物を飼い慣らしたままその生を終えるもんです。ところがどっこい一旦桎梏に傷がついたり壊れたときなんかは内なる魔物が大きく暴れだし相当な化け物として社会に姿を現すんですよ。これがいわゆる猟奇的殺人鬼みたいなやつのことでね、もしかしたらあなたにもその素質があるのかもしれない。2、3パターンの前者でも後者でも社会に批判されるのはそれの暴走による結果のみであって、その魔物については誰も触れようとしない。なぜかって?それは自分らにもその魔物と桎梏があることを知っているから自分たちも暴走する可能性があることを知っているからその暴走自体は否定ができないんです。だからあなたも含めたこの世の誰も私のすべては否定できない、こういう道理なんです。一応補足しておきますと、この暴走と同じような結果をもたらすものに正義の歪曲も存在します。社会で決められた模範的な正義とは大きく逸脱した正義による殺人が私の言う正義の歪曲による暴走ですね。ヒーローものの悪役の考え方と言ったらわかりやすいでしょうか。この暴走は内なる魔物の暴走とは一線を画します。結果が同くジェノサイドであってもプロセスが全く違う。魔物のほうは先天的でどうしようもないもので正義の歪曲のほうは後天的でどうにかできるもの。悪役がヒーローに絆されるシーンがあるでしょう?あれは後天的だからこそなんです。少々熱が入り話をそらしてしまいました。あなたは何を求めているのかと質問しましたが、私が求めているものは答えです。Tさん、日が出る少し前からここで待っていましたが、彼女さんは出てきませんでした。そして、今あなたはスーツで職場に向かうご様子ですが、一体彼女さんはどこにいらっしゃるのですか?」
Tは自分自身が自分自身でなくなっている未来を見た。その姿は紫焔がまとわりつき目には深い闇が常在していて、なにかに法悦するように口を半開きにしたまま一点を見つめている。手には何か持っているらしいがどこか所在無い。Tはこの姿を見つめることに耐え切れず俎上から降ろした。
質問を回避することはTにとって造作のないことだった。しかし、そのどれもがその場限りの答えであり、能見が納得する答えではないものであることをTはわかっていた。その中でどれが被害を最小限に抑えられるのか。Tは結局家が近いから夜中帰ることが出きた、という設定にすることに決定。
Tがそれを能見に伝えると、能見はやはり納得した様子ではなかった。が、「家が近くても彼女さんを夜中に返すのは、Tさんが一緒でも危ないと思います。」と言い、生返事をするTを見て「そろそろ時間がまずいんで。」と
私がお前に時間を使われたから遅れそう、みたいに責任転嫁しやがって。と心の中で思いながらエレベーターを待ち、仕事に向かった。エレベーターの鼠は火鼠に変わっていた。
Tが家に帰る際エレベーターの火鼠の火力は上がっていた。能見がT部屋の前でスマホを凝視していたが、自分の部屋の前に能見がいるのはこの日、常に能見のことを考えていたTにとってもう想定内だったので、手を出すという最悪の事態にはならなかった。
能見はTが部屋まで来るのを待ち「Tさん。今日ずっと考えていたんですが、やはり彼女さんに会いたいです。正直もう好奇心が暴れまわって抑えられません。あなたの彼女、と言われている方に会いたいのです。一瞬会ってひとことTさんの彼女ですと答えてもらうだけでいいんです。それだけで、ほんとうにそれだけで私は救われます。そしてそれをできるのはTさんだけなのです。私のことを救うと思ってどうか許してください。」と両手を合わせ頭を深く下げると、Tは大きく息を吸い「あなたは本当に自己中心的な人物、しかも自分を弱者に仕立て上げることがお上手ときた。自分のプライドもクソもないエゴイスト、あなたとは全くもってかかわりたくないというのが本音です。そしてこれが一般の常識というものでしょう。しかし、私はあなたのその願いをかなえるように努力をしましょう。あなたの弱者への擬態に付き合ってあげます。これは善意で行われるものですから、成功しなくても文句は絶対に言わないでください。わかりましたね?」
能見がそれを聞きありがとう、ありがとうと何度も頭を下げる姿を見て少しほくそ笑んだTだったが時間の無駄だと気付き能見を退散させるための別れの言葉を言い軽々と取っ手を持ち水の待つ部屋に帰った。
能見は真顔になったまま数分間Tの部屋を見続けた後、すこし苦笑して部屋に戻っていった。