出会い
Tが住むマンションに着くころには10時を回っていた。7人も乗れないであろう平べったく狭いエレベーターに乗り、見たことはないが、鼠の皮を剥いで使っているのではないかと考えるほどの鼠色とよぶに相応しい色をした壁を見つめていると、部屋のある6階に着きTは疲れた体を引きずるように部屋へと向かった。
ここまではTにとっての日常そのものだったが、部屋の前で不思議な感覚に襲われた。取っ手が掴めない。一度スカした後、二度目三度目としっかり確認して掴んだはずが、そこに取っ手がないという奇妙な現象が躍り出る。「大分疲れてるな...」そうつぶやき最後の集中力を使ってそれを何とか掴み扉を開けた瞬間、Tの眼に非日常が襲ってきた。家の中に人がいた。それも、年端もいかない少女が。Tは普段にも似合わず大声で叫び声をあげ後ずさりをして倒れた。もしこれがある程度予測できる状況だったならばいくらか前に騒音で大家から注意を受けたことに想いをはせることも出来たのだろうが、そのような冷静さは失っていた。
Tは目を大きく見開き少女を眺めていたが意識は朦朧としていて、その視線は青色の着物に彩られたアヤメの花と少女の顔の狭間で揺れる。鉄筋コンクリートと密光、そして闇が調和して暗澹とした雰囲気を孕んでいる。朝、家を出るときに消したはずの電気が伸び、部屋の外まで凛と居座る。そこに着物を着た少女の影が浮かび上がり、じっとこちらを見据えたままびくともしない。実像の少女は悲しみを持っていたが、それが作り上げた表情がTに大人びた少女という印象を与えていた。夜のマンションの一室にいる着物を着た少女。現代と中世、現実と幻想、弱光と濃暗。これらの矛盾はどこまで行っても理解できない現象のような気がして、Tに巨大で漠然とした恐怖を与えたが、その中になにか恍惚とするものも感じていた。
冷静さを取り戻す努力をし、どうにか落ち着きが戻ってきて尻を上げ、自分が朝家を出るときに鍵を閉めたことや電気を消したこと、自分の知人やその周りから少女を預かる約束をしてないことを再確認し終えると、少女をしっかりと観察する余裕がようやくできた。
これは一体どういうことだ?ここは絶対に俺の住むマンションで俺の住む部屋のはず、なぜ人がいるんだ?そしてなぜこいつは何もしようとしてこないんだ?尻もちまでついた俺のことを憐れむような目でじろじろ睨め回しやがって。まぁ、見たところ空き巣だとかそういう犯罪者の類ではないらしいが...ここはすぐ立ち去り警察に電話をするべきか?それとも話しかけてみるか..?
そこからどうするかTはいくつかの選択肢の中で漂ったが、少女の表情に悲しみが滞在していたことや、敵意が見えないこともあり最終的に声をかけることに決めた。このような状況は最初が肝心要であり、朧げな星のようにある"最初の一言"を選ぶのにだいぶ苦労した様子だったが、なんとか覚悟を決め「君は何をしている?」と語気を強めて質問すると、少女は「ここに住んでいる。」とまるでここで長年生きて、この場所で最期を迎えることを決めた年寄りのような落ち着きを感じさせる佇まいで答える。Tは何を言っているのか意味は全く理解できなかったが、その佇まいが全く泰然としていて自分がなにかを間違えているのではないかと辺りを再度確認をしてしまうほどだった。そして、「住んでいる。」という言葉をそのまま受け入れた。
だんだんと冷静さを取り戻し、少女の名前や親の存在、年齢などを聞いたが返答はない。Tはほとんど霊的なものを信じるタイプではなかったが、少女が着物を着ているということ、「ここに住んでいる。」という言葉。そして少女には元来無いはずの年月を感じさせる佇まい。Tの中にある考えが生まれてきていた。海に映る水平線を見つめているときのように、森羅万象に対する期待と地球が回っているという事実への恐怖、絶望、興奮の四つの感情が交差する。
Tがほとんど疲れながら無意識に「君は座敷童か?」と尋ねると少女は黙って頷いた。