chapter26 温かみ
「ふう……」
ため息を一つ着いて、瑠衣はドアを開けた。
「ごめん、ちょっと遅くなっちゃった……」
「あ、瑠衣」
悠と目が合う。が、彼はすぐに目を逸らし、自分の荷物を手に取った。
俯いた状態で視線を合わそうとせずに言う。
「急用を思い出したから、帰るよ」
逃げ出すかのように去ってしまった。
それじゃあと織音も出て行く。マリアナが後ろめたそうに瑠衣を見た。しかしすぐに主人の後を追って去っていった。
瑠衣はぽかんとしたまま何が起こったのか必死で理解しようとした。だが、何が起こったのかさっぱり分からなかった。
「何か……あったの?」
メリッサに聞いてみる。彼女は腕を組み、ううんと唸った。よく知らないらしい。
まあ本当に急用があっただけかも知れない。でももし避けられたのだとしたら――。
「……」
携帯に手をかけて、メールを打とうとした。でも指が動かなかった。聞いて更に不快な思いをさせてしまいそうだったからだ。
無理に理由を問いただして関係を悪化させるよりも、何も聞かずにただ受け入れた方がこの場合は賢い選択だろう。
携帯を閉じて、テーブルの上に置く。
彼が話してくれるまで待とう。
テーブルにうつ伏せになる。少しウトウトして来た。このまま眠ってしまいそうだ。
眠気に打ち勝てずに瞼が閉じていく。意識が深淵の闇へと落ちて行こうとした時だった。
カタンッ
ふいに物音がした。
閉じていた目をパッチリ開け、辺りを見回す。
ベッドで寝ていたはずのファイが起き上がり、ベッドの横に立ち上がっていた。軽く伸びをする後姿が瞳に映る。
慌てて瑠衣は立ち上がった。
「ちょっと……!ファイ!」
「ん?」
ケロッとした返事。少しあどけない瞳。
心臓がキュンっと高鳴った。
しかし今はときめいている場合じゃない。
「まだ安静にしてなきゃダメでしょ!」
「ずっと寝ているとどうも身体のあちこちが疼くんだよ」
確かにちょっと身体を動かすだけでポキポキ音が鳴っている。
自分もあまり病気だからとずっと寝ているのは好きではない。よほど重症でない限りは一日くらいしか安静にしてない事が多い。
まあいいかと瑠衣が思った時、ファイがふらふらと瑠衣にもたれかかって来た。肩に頭を預けられる。
「ほら、言わんこっちゃない……」
「瑠衣」
名を呼ばれ、瑠衣はドキリとした。
「今日……誕生日だろ」
「何でファイが知ってるの?」
あたしが教えたんだよと思いながらメリッサは瑠衣の部屋を出た。
「俺は、大丈夫さ。せっかくの誕生日なんだからよ……もっと楽しんでおけよ」
「馬鹿じゃないの!?」
つい瑠衣は声を上げていた。
「隣で苦しい思いしている病人を放っておいて楽しめるとでも思ってる訳!」
「だから、俺は大丈夫だって……」
「どこが大丈夫なのよ!」
ファイの頭を掴み、我が身へと引き寄せる。
「こんなフラフラな身体のくせに!嘘ついている暇があるなら安静にして、さっさと治しなさいよ!」
背中に手が回される。自然に二人は抱き合っていた。
弱々しい彼の背中に切ない想いがふいに込み上げてくる。こうして苦しんでいるのも契約主である自分の不甲斐なさのせいでもあるのに、自分は棚に上げてファイばかりを怒っている。そんな自分は鬼だ。
それなのに、想いを寄せてくれていると言うのだろうか。
「本当に悪い……」
「本当に悪いのはきっと私だから、ごめん」
ファイは彼女の温かさによって随分と気分が楽になっていくのを感じていた。
彼女は本当に不思議だ。優しいチカラを持っている。人の持つ思いのチカラを――。
――ほんの少しだが、瑠衣の心に近づけたような気がする
今日は年に一度の記念日。瑠衣と言う一人の生命がこの世に誕生した大切な日。
今日だからこそ、言える言葉。
「誕生日、おめでとう。瑠衣」
その言葉が胸にしっとりと入ってくる。
こんなにも人からの祝いの言葉が嬉しいなんて、初めて知った。これも、特別な何かがあるからなのだろう。未だ自分ですら気付けていない彼への思いが。
ぽろぽろと自然に涙が零れ落ちた。悠に同じ言葉を言われたとしても、こんな反応をしただろうか。
ファイに涙がかからぬように顔を背けた。
「泣いているのか……?」
肩の震えでそう感じ取ったのだろう。
「ごめん……。今のファイには、水気は、禁物なのにね?でも……止まらな」
「好きなだけ泣いたらいい」
置いてあったティッシュの箱を差し出すファイ。
「いつもそうやって我慢するからいちいち大変なんだぞ?たまには……思いっきり泣け。少なくとも、俺の前では遠慮するな」
彼の言葉はいつも心に染みてくる。普段はあまり見受けられない内なる優しさがこういう時に出てきてくれる。
沢山助けられているのに、何もお礼すらしていないなんて、無礼にも程がある。
こんなに表立っても裏でも助けてくれているのだ。報酬はあげなければ。
「……ありがとっ」
そのまま頬に唇を触れさせた。
すぐさま唇を離してそっぽを向く。そしてチラリと彼の反応を窺う。
目を見開いた彼の顔がどんどん紅潮していった。かと思いきや頬を押さえて凄い勢いで後ずさった。その弾みで壁に後頭部を強く打ち、ゴンッと鈍い音がした。
口をパクパクさせているファイが呼吸困難に陥った鯉のようで思わず噴き出してしまった。
まさかこんな反応を見せるとは思ってなかった。案外、攻めには弱いタイプなのだろう。
「ほらほら、さっさとベッドに入りなさいな」
悪戯っぽく舌を出した。
相変わらず頬を押さえたままファイは言われるままにベッドに入った。そして深く布団を被った。
――今の、夢じゃないよな!?
試しに自分の頬をバチバチ叩いてみる。痛い。確かに夢ではない。
突然の出来事にパニックになっていた。
鏡を見たらきっと顔を林檎のように真っ赤にした自分が映っている事だろう。しかし顔の火照りはしばらく治まりそうにない。
こんな事で喜んでいる自分は単なる馬鹿なのかも知れない。
――……今更こんな展開になっても
心を落ち着ける。カシオとの約束を思い出したのだ。
でも、まだ可能性が残っているのだとしたら――。
今夜はとても眠れそうにない。