chapter10 本心
「あれ、河岸附君は?」
「お腹の調子が悪いってトイレに籠もってます!」
「あ、そう」
先生を何とか誤魔化し、瑠衣と織音は普通に授業を受けた。とは言え今日は午後の授業が一時間しかないラッキーな日だ。
授業が終わるなり瑠衣と織音は急いで学校を飛び出した。置き去りにしてあったファイの荷物もこっそり持ち出して。
荷物が多い分少し足取りは悪かった。
何処にファイ達が居るのか直感で分かっていた。これも契約主と精霊の切れない関係のせいなのだろうか。
入り組んだ道をジグザグに曲がりながら、七つ目の角を回るとファイ達の姿を発見する事が出来た。学校からは少し距離のある、近所でも人通りが少なくて危ない道だと評判の道の上だった。
前回襲ってきた精霊は確かにそこに居た。しかし様子は変だ。姿そのものは見えているのにまるで何かに阻まれているかのように動かない。
「あ、こいつ、土で、がんじがらめに、してあるのを、透明に、して、見えるように、してある、だけなん、です。だから、動けません、よ」
二人とも表情が硬くなっていたらしい。マリアナが説明した事によりようやく安心感を得られた感じだった。
それでもきっと睨む目が怖くて瑠衣はまともに見る事が出来なかった。
「にしても、もう一時間も経っているのに契約主が現れないってどうかしてるな。普通、そこまで放っておくか?」
「風は気ままだからな。これ位、ただの遠出としか思ってないさ。ましてや、我が主ならばな」
澄まして言う彼にはまだ余裕があるようだ。目がそう言っている。どんなに待っていても契約主は現れない――と。
契約主と彼の関係はそんな軽いものなのだろうか。ましてや契約主は命を狙われる立場にあると言うのに精霊を常々側に置こうとは思わないのだろうか。
「危険を知らない無知さを感じさせる」
鋭い目つきで織音が言った。
「我が主を危険にさらした事は一度もない。だから我が主は安心を得ている。得なくてはならないのだ……」
そこで初めて瑠衣は彼が必死で危険を契約主から遠ざけていた事に気付く。一抹の不安を与えさせない。心配もかけさせない。それが彼の護ると言うスタイルなのだ。
ふうっとファイが首を振った。このままでも埒があかない。
「だったら、核は、いただく、です」
意を決した瞳でマリアナが一歩進み出す。
動けずにいるカシオの胸にマリアナの手が伸ばされる。水面に飛び込むように手は胸の中へと侵入する。
マリアナの手に力が込められた。何かを掴んだようだ。
「ううっ……」
カシオが嗚咽を漏らした。どうやら核を掴み取ったらしい。
「出来れば、私同様、配下と、なって、くれれば、こんな事、しなくても、良かった、のに……」
「ここまでしてまだそのような戯言を言うか……。情けは必要ない。早く取り出すがいい」
言葉通り、マリアナが勢い良く引き抜こうとした時だった。
カツッとファイの後ろで石を蹴る音がした。反射的に振り向く。
そこには真っ青な顔色で震える少年が居た。背は小さめなものの、大人びた顔からしてそれほど瑠衣達と年齢は違わないようだ。しかし男にしては今にも折れそうな程細い身体がその弱さを露にしていた。
最初は一般人にこんなシーンを見られてしまったと焦ったファイだったものの、カシオの表情に焦りが浮かんでいるのを見てすぐに察した。
彼こそがカシオの契約主であると。
「貴方は逃げなければならない!」
「……でも」
「我が身はどうなろうと構わない。だから、貴方だけは――」
「そういう訳にもいかないな」
好戦的なファイの瞳にひいっと声を上げた契約主は尻餅をつく。そのまま震える身体を起き上がらせる事は出来なかった。
あっさりとファイの腕に拘束される。
「お前の大事な大事な契約者さんは俺の掌中に貰ったぞ」
「くっ……」
土で固められているはずのカシオの身体が動き始める。マリアナが慌てて手を引っ込める。
次の瞬間、凄まじい風の渦が生まれていた。あんなのに襲われていたら腕など簡単に引きちぎられてしまうだろう。
その風が鎌の形になってファイに襲い掛かる。ファイは契約主を抱えて飛び上がる。マリアナの隣に着地する。
こちらを睨みつけるカシオは手負いの獣と言ったところだ。呼吸を荒げ、興奮状態になっている。とても冷静で知性的な精霊と同一人物とは思えない。
「返せ、我が契約主を!」
彼の姿が突如変化した。尖った体毛に覆われ、巨大な灰色の狼へと変身した。
「やべっ……、あいつマジで本気出すつもりだ!」
さあっと血の気が引いた二人の表情は何だかゾンビのようだった。
しかし彼らがここまで恐れる理由はすぐに身を持って知る。
猪突猛進と言わんばかりにこちらへと向かってくる狼――カシオ。身構えるファイとマリアナ。しかし逃げ腰のように見えるのは気のせいだろうか。
あと数メートルと言う所で彼の姿は瞬時に消えた。
「!?」
いつの間にか彼の姿は後ろにあった。しかし一体どうやって。
一瞬の間があって。赤い血しぶきが舞った。
倒れこんでいくその姿を瑠衣と織音は呆然と見ていた。
「ファイ……マリアナ!」
動こうとした時、頬に鋭い痛みを感じた。擦ってみると、血が滲んでいた。突進してくる事を予想して端へ避難していてもこの有様だ。まともに当たれば大怪我又はそれ以上の大変な事になるだろう。
駆け寄った瑠衣の手をファイは支えにして何とか立ち上がって見せた。しかしマリアナの方は足もまともに動かないようだ。生まれたての馬のように必死でもがく程度だった。
人質としてこちらに居る契約主も視界に幾つも見える赤の液体に頭を抱えた。
「もういい……」
ぴくっとカシオの耳が反応した。小さなか細い声で契約主が命じた。
「もういいから、やめてくれ……」
狼の姿が揺らぎ、人の形へと戻ったカシオが何故と呟いた。
「何故止めるのですか!?貴方の願いを叶えるために――」
「ここまでして願いを叶えて欲しいとは思えない」
彼の目には大粒の涙が浮かんでいた。はっとしてカシオも言葉を失う。
「お前は契約主の意図すら理解出来ていないのか」
厳しい目がカシオの心を見透かすように睨んでいた。血のついた口を手でごしごし拭いながらファイはなおも言葉を続ける。
「契約主と精霊の関係は主従だ。従属する精霊は契約主の意図を最も尊重して行動すべきだろう。意見が折り違えば必ず相談の上でする、それが天帝から与えられた規則の一つにあるんじゃなかったのか?」
「貴方は、賢い。でも、自分の、考えを、人に、当て嵌め、正当化する、所がある。それでは、契約主を、苦しめる、だけ」
カシオはただただ泣く契約主の姿を見る事しか出来なかった。