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ユーカリと殺し屋の万年筆  作者: 趙雲
龍勢淳編
70/130

「14話-舞踏-(後編)」

逃げずに向き合っていく。

そのきっかけは、ほんの些細な事で良い。

誰かと、何かと共に歩んでいく青龍暁さんを見届けてみませんか。


※分割していた話を纏めた為、約22,000字です。

2014年11月4日 16時頃

藍竜組 総長室兼副総長室

青龍暁(せいりゅう あかつき)



 心を隔てた総長室兼副総長室の扉。

あれから丁度1日、申し訳ないとは思いつつも裾野の部屋に泊めて貰った。


 俺はその時に裾野にある疑問をぶつけた。

「どうすれば、正面で向き合える?」

と。


 真っ直ぐに言えた俺の気持ちを、裾野は馬鹿にもせず笑う事も無くただ微笑んでこう言ったのだった。



・・・



 裾野から掛けられた言葉を胸に総長室の扉をノックした。

「は~い」

すると、意外にもいつも通りの司の声が扉の外に響いたのだ。


 この違和感は何だろう?

気配で俺だと分かる筈なのに、一体どうやって彼なりに答えを出したのだろうか。


 些か疑問に思いつつ扉を開けると、司は徐に立ち上がり頭を下げた。

「暁、本当に申し訳ない。声や母さんの事と必死に向き合っている暁の気持ちに気付かないまま、昔と同じ接し方をしていたな」

司は頭を下げたまま噛み締めるように言うと、机に付きそうな程深く頭を下げたのだ。


「それがどれだけ暁を苦しめていたのかも分からず、本当に申し訳ない」

それから紡がれた言葉に、俺は目を伏せる事しかできなかった。


 今更謝ったって遅い!! 一生許さない!

そう言い放って司を突き飛ばしたい自分と、やっと俺の気持ちに気付いたのなら未来を一緒に歩みたい。

こう思っている自分も居る。


 許すか、許さないか。

司はどう思っているのだろう?


 彼なりの答えは、今までの事を謝罪すること。

その先は俺の答え次第と考えているのか、それとも許されるに決まっていると考えているのか。


 分からない。

どうしていいのか。


「暁。俺にはお前の沈黙を察する力が無い。勝手な願いだが、言葉にしてくれないか……俺はそう簡単に傷付いたりしないから」

司は腫物に近づくようにこちらに向かって歩を進め、俺の様子を窺っている。


 司は強いうえに、"良い子"だ。

俺はずっとそんな彼が嫌いでもあって、好きな所もあった。


・・・


「少しずつ、藍竜総長の事を受け入れる気持ちを育ててみてはいかがでしょう?」


・・・



 不意に裾野に掛けられた言葉が過り、じんわりと温まっていく心。

それは裾野自身が、菅野を"本当の相棒"だと認める過程で生み出したマインドなのだろう。


 許す、許さないではなくて受け入れていく。

その過程で許せないものは、受け入れないのではなくて別の入れ物に仕舞い込む。


 今までは全部に向き合って疲弊して、全てを拒絶してきた。

だがそれではいつまで経っても同じであることを、龍勢や神崎、冷泉そして裾野が気付かせてくれたのだ。


 少しずつでも変わっていくことで、相手との溝を埋めていく。

司にも冷泉の言葉から俺の気持ちも伝わっている事が分かった今、俺がする事は1つ。



「ありがとう」

いつの間にか俺の目の前に来ていた司――兄さんを包み込む事だった。


「お、お……こちらこそありがとう。それにしても暁、大きくなったな」

兄さんは躊躇いながらも俺の背中に手を伸ばしたが、恥ずかしいのか抱きしめ返す事はしなかった。


「裾野と変わらないから」

俺は10cm程低い兄さんの肩に顎を乗せると、兄さんはくぐもった笑い声をあげた。


 それから互いに顔が見える距離まで離れると、

「本当に良いのか?」

兄さんは心底心配そうに眉を下げた。

何十年分の心配が積み重なったせいか、皺が若干眉間に寄ってしまっている。


「兄さんを、受け入れるから」

俺は一歩離れてから消え入りそうな声で言うと、兄さんは夕日のように優しく微笑んだ。


「俺も、暁と一緒に前に進むよ」

そう柔らかい笑顔で話す兄さんは、たった1人の大切な兄弟だと思える程愛おしい。


「……バンド」

だからこそ、声と向き合う手段として出会った物を口にしてしまった。


 だが、兄さんは目を見張って響く程の音量で手を叩くと、

「そうだ! ベースとボーカルだけでは出来ないから、メンバー探しだ!」

意気揚々とスマフォを尻ポケットから取り出し、連絡を取り始めた。


 少なくとも冷泉がピアノをやっている事は知っているが、ギターやドラムはどうするのだろう。

裾野にギターを掛け持ちしてもらうのだろうか?

そうなると、ドラムは? というよりもドラムって何だろう?



 それよりも、こうして兄さんと正面で向き合って話し合えた事に感謝したい。

ここまで辿り着くのに、様々な人の温かい心と言葉があったから俺は変われた。



 バンドは上手くいくかまだ分からないが、何故か俺の心はほんの少しだけ踊り始めていたのだった。



2014年11月5日 10時頃

藍竜組 総長室兼副総長室

青龍暁(せいりゅう あかつき)



 兄さんと和解し、この時期なのに温もりすら感じる総長室にとある人物がやって来た。

どうやら兄さんが呼んだらしい――バンドのオーディションだと言って。



 慎重に3回ノックして入室した人物は、小脇に新品のキーボードを抱えてはいるが、いつも通りの柔らかい微笑みを浮かべていた。

「え……冷泉?」

俺は応接間に通された人物に、副総長用のデスクから身を乗り出して言った。


「暁も居たんだな! 仕事中にすまないな、少しだけ音を出しても?」

冷泉は俺の机に積まれた大量の書類を見遣って苦笑いしたので、俺は大きく頷いた。


 この時期だと月次決算が終わって、経費精算の処理で追われるから仕方ない。

とはいえ1組1組の申請数は少ないから、それだけ隊員が増えてきたということだろう。

システムを入れているとはいえ、毎月30cm程の書類を処理するのは――嬉しい悲鳴でいいかな。


 パソコン用の眼鏡を掛け、書類の山に手を伸ばすと、

「暁! バンド名どうする!?」

という拍子抜けした兄さんの声が聞こえ、思わず溜息が漏れた。


「後で、いい?」

目を伏せて言うと、兄さんは腕を組んで頷いた。


 それから冷泉と向き合い、

「バンド(仮)のキーボーディストオーディションを開始する!」

と、誇らしげに言うので、俺は口元を緩めつつ経費精算の処理を始めた。



 ここからは片手間に聞いていたから、一語一句は覚えていない。

ただ、自分の曲を課題曲にしているあたり、本心から自分の曲で勝負したいのだなと感心してしまった。


 キーボードの音は初めて聴いたけど、1つの音色だけでなくて鐘の音やオーケストラの音も出せるようで心底驚いた。

あれは自前なのかな。


 やがてオーディションが終わったらしく音が止むと、

「暁、迷惑かけて悪かったな」

冷泉がキーボードを抱えながら頭を下げた。


「大丈夫。それ、自分の?」

と、試しに訊いてみると、冷泉は両頬に笑い皺を深く刻んだ。


「今日からバンドメンバーだから、よろしく!」

それから手を差し出されて言われた一言に、俺は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてしまった。


 今日から!?

兄さんの時間軸はどうなっているんだろう。


「よろしく……兄さん?」

俺は冷泉の握手に応えつつ、兄さんを睨むと歯を見せて笑った。


「想像以上に上手かったから、即採用だ」

兄さんは立ち上がって冷泉の肩をポンと叩くと、

「経費精算の処理が終わったら、スタジオ借りて早速練習するから課題曲仕上げておいてくれ」

大きく二、三度頷きながら言うので、俺はすぐに視線をノートパソコンに落として作業に取り掛かった。


 何でそこは俺を基準にするの!?

相変わらず、自分がどうしたいかで動きたがるんだから。

もっと人の事を考えて欲しい。


「分かった」

冷泉はキーボードを抱え直して言うと、

「あまり無理するなよ?」

眉を下げて俺に向かって言うので、微笑みながら頷いておいた。


 問い合わせしないといけないものが10cm、未処理が15cm。

あぁ……今週で終われば良いな。



2014年11月9日 9時頃

某スタジオ(蒼谷茂のスタジオ)

青龍暁(せいりゅう あかつき)



 何とか先週で経費精算の処理を終わらせた俺は、兄さんと冷泉が待つスタジオの前に来ていた。

それにしても、裾野経由とはいえ頑固者で有名な蒼谷が、よく他のバンドに貸してくれたものだ。


 そうベースの師匠に感心しつつ、スタジオの扉を開けると、そこには2人に加えて蒼谷と茶髪の男性が居た。

この前疑問に思っていた、外側が真っ赤で面が透明のお皿が沢山並んだものと金色の蓋もいくつかあるものの側に座っている。


 茶髪の男性は俺に気付くと、蒼谷と2人の名を呼び振り向かせてくれた。

よく見ると茶髪は肩甲骨の下程まであるのを1つに結っていて、白い無地のパーカーも似合っている。

それに、顔が小さくて目が丸く可愛らしい印象を受けた。


 だが、無垢そうに見える瞳の奥は淀んでいて劣等感をオーラとして放っているように見えた。

データが正しければ、彼は裾野の片桐組時代の同期である、あことしだろう。


「お疲れ様です。バンドメンバーでドラム担当のあことしです」

蒼谷はベースの首を左手で支えながら言うと、あことしは満面の笑みでドラムという楽器を叩きだした。


 これがドラムの音。

皿や蓋ごとに音が違うように聞こえ、足でも何か叩いているのか地響きを感じる時もある。

それよりも、あことし自身本心からドラムが好きである事が犇々(ひしひし)と伝わってくる。

音で気持ちを伝えられる……心が躍りそうだ。


 しばらくして叩いていた2本の棒を下ろすと、

「しげちゃんが人に教えられるなんて凄いね! あ、ドラム探してるんだっけ?」

ひょいと丸椅子から下り、人懐っこい笑顔を蒼谷に向けるあことし。

本当に裾野や蒼谷と同い年なのか、疑いたくなる程子どもっぽい。


「はい。あなたなら誰か良い人を知っているのでは、と思ったのですが」

蒼谷はほぼ同じ身長のあことしに対し、表情ひとつ変えずに向き合っている。


「う~ん、ごめん。俺が知ってるのって、もうバンドに所属してる人だけなんだ~。だから無所属の人は居ないかも」

胸の前で指をクロスさせて目を伏せると、スマフォを取り出して1,2分程見て頬を膨らませた。


「そうですか。手を煩わせてしまってすみません」

蒼谷は申し訳なさそうに眉を下げると、兄さんの方に向き直り、

「お役に立てず申し訳ございません」

と、深々と頭を下げたので、兄さんは首を横に振った。


「探してくれて助かった。殺し屋で楽器できて敵対していない組って時点で母数減るから仕方ないか」

兄さんは冷泉と顔を見合わせて言うと、あことしの方を見遣り、

「もしだけど、暁みたいに初心者連れて来たら……あことし、教えてくれるか?」

と、柔和な笑みを浮かべて言った。


 あことしはその言葉に劣等感に満ちた瞳を揺らし、

「しげちゃんがやったんならやるよ。でも、俺結構厳しいかもよ?」

と、意味深な笑みを浮かべて言うので、

「あことしと2人きりにならないよう、私か裾野を同席させるのでご安心ください」

と、すかさず蒼谷が釘を刺した。


「助かる。それなら今日は、練習を見てもらっても良いか?」

兄さんが楽器のセッティングを済ませた俺たちを横目で見つつ言うと、蒼谷とあことしは小さく頷いた。



・・・



 練習が始まり、自分のパートしか知らなかった曲が始まる。

そして気付いてしまったのだ。


 最初は自分の音しか無いことに。


「え……」

俺は戸惑いを覚えながらも、必死に練習してきた通りに指を動かす。

もしかしたらドラムやギターには音があるのかもしれない。

……そうだと良いな。


 自分のパートが終わる直前、兄さんが大きく息を吸う音が聞こえる。

俺は右隣で左手を仰ぐ彼を見遣ると、歌う姿がスローモーションに見えて俺の心に突き刺さっていった。


 高くて突き抜ける、意志の強い歌声。

綺麗なだけじゃなくて力強くて、声量も耳がツンとする程大きい。

何よりも、一度聴いたら放さない魅力がある。

素人でも分かる上手さで、勝負できる確信があった。


「……」

1曲演奏している間、ずっと視界の端には兄さんが映っていたから安心して出来た。

とはいえ、かなり俺が足を引っ張っている印象である事は確かだ。

2人はレベルが違いすぎる上にやはり、冷泉は只者ではない。


「どうだ?」

兄さんはマイクの電源を切ると、蒼谷とあことしの元に歩み寄る。


 俺は兄さんを見送るとすぐ冷泉に謝罪したのだが、

「始めてまだ少ししか経ってないのに、凄いじゃないか! しかもあのパート、ソロだったんだな」

と、逆に褒められてしまった。


 どうやら1人で弾くのは、ソロというらしい。

まだまだ知らない事だらけだ。


「そう、だね。どうして兄さん、ソロを……」

俺は今まで音楽の音の字も知らない素人だったのに、どうして俺にソロを弾かせたのだろう?

冷泉や、今後入るかもしれないドラムやギターの人にやってもらった方が良いのに。


「藍竜の事だから、暁の気持ちに応えたかったんじゃないかな」

冷泉はベースを見下す俺に優しく声を掛けると、兄さんの方を何とも言えない温かい表情で眺めていた。


「……」

俺は小さく頷きつつ、声や母親と向き合う事を決意して良かったと安堵の溜息をついた。


 兄さんも俺の気持ちに応えようとしてくれている。

それに冷泉が居れば、喧嘩もしないだろうから安心できそうだ。


 その後、俺は蒼谷に夜が明けるまでレッスンを付けてもらい、ソロや他の運指も見直してもらう事になったのだった。



・・・


 次の週の土曜日、あことし、蒼谷と裾野に依頼して練習を見てもらっていた時のこと。

裾野は俺のソロにかなり驚いた様子だったけど、事情を知っているせいか途中から表情が綻んでいた。


「一旦、休憩休憩!」

兄さんが背伸びをし、マイクをオフにしてアンプの上に置いた。


「そうだね」

俺もベーススタンドに立てかけ、軽くストレッチをした。


「裾野くんがギターをやるのはどうだ?」

冷泉が談笑している裾野に声を掛けると、

「お話はとても嬉しいのですが、本業を疎かにする訳にもいきませんのでお受けすることは難しいです」

裾野は蒼谷とあことしとアイコンタクトしながら頭を下げた。


 ただでさえ、菅野と自分のスケジュール管理や役員としての仕事も抱えている状況だ。

そのうえ、部下何百人の人事評価面談の二次評価者、菅野の一次評価者もしているから忙しいだろう。


 デモ音源と呼ばれるものしか聴いていないから分からないけど、ギターのパートも難しそうだから。


「お疲れ様~!」

若干淀んだ空気を切り裂いたのは、神崎颯雅だ。

両手に大量のお菓子の入ったビニール袋を持っているが、もしかして差し入れだろうか。


「差し入れだ~!」

神崎は全員に個包装で星型のお菓子を配ると、冷泉と談笑し始めた。


「美味しい」

早速封を切って口にしてみると、パイの食感と中に入っているチョコの硬さが丁度良くて幸せな気持ちになれた。


「……」

珍しく黙ってマイクを手に取る兄さんを横目で見ると、兄さんは何かに閃いた発明家のような表情で神崎を見つめていた。


 そんな何か閃いた表情をしていた兄さんを冷泉が見逃す筈がなく、差し入れを配り終えた神崎を呼び止め、

「颯雅も何か楽器やってみるか?」

と、微笑みながら言う。


 神崎はそれに対し特に嫌がる様子もなく頷いてみせたので、冷泉は裾野を手招きした。

「颯雅には何が合ってそうだ?」

冷泉が満面の笑みで何度も頷く兄さんに笑い返しながら言うと、裾野は顎に手の甲を乗せて考え込んでいる。


 兄さん、冷泉、俺に神崎。

もしこれでバンドが出来たら、心が躍りそうだ。

後は誰に入ってもらうかにもよるかもしれない。


「颯雅は手を見ずとも分かるのですが――あことし、颯雅にドラムを教えて欲しい」

裾野はドラムを叩いているあことしを呼ぶと、彼は小さい金色の蓋を3回叩いた。


 おそらく、速度で鑑みるに「いいよ」だと思う。


「ありがとな」

神崎はあことしの側に行き、何やら叩き方等を教わっている。


 すると兄さんは2人に大股で近寄り、

「どうだ?」

と、あことしに声を掛け、専門用語なのか聞き取れても良く分からない言葉を話している。


「これは颯雅もメンバーに入るかもしれないね」

冷泉は様子を窺う俺の隣に歩み寄ると、柔らかい笑みを浮かべた。


「そうかも」

俺はベースをスタンドに立てて言うと、心配そうにあことしを見つめる蒼谷の名を呼んだ。


「はい?」

ドラムの音が鳴っているからか、いつもよりボリュームを上げた彼の声は少々威圧的だ。


「心配そう」

怪訝そうに俺を見上げる彼に声を張ってみると、蒼谷の表情が曇っていく。

何があったのだろう?



 だがそんな心配を他所に、あことしは歓喜の声をあげた。

「凄い! 基礎もう出来ちゃった!」

心から嬉しそうに飛び跳ねる彼は、本当に裾野や蒼谷と同い年なのだろうか。

しつこいようだが、何度も疑いたくなる。


「偶々だろ。もう1回やらせてくれ」

神崎は棒を指の間で回転させると、大きく息を吸い込んだ。


 もう1回やっても、先程と同様間違えている雰囲気は無かった。

そのうえ冷泉や兄さん、蒼谷もそれぞれに感嘆の意を示している事からも、才能は本物なのだろう。

「やっぱ凄い!」

あことしは胸の前で手を組み、目を潤ませている。


「ありがとな。でも基礎だからな~……ドラムって難しいだろ?」

神崎が棒をあことしに返しながら言うと、受け取ったあことしは首を大きく横に振った。


「ううん、ドラムなんて簡単だよ~!」

それから紡がれた言葉に、蒼谷は盛大な溜息をついた。

そのまま神崎に何かを伝えようと歩を進めると、蒼谷の隣に居た裾野が手で制した。


「颯雅は大丈夫だ」

裾野はあことしと神崎には聞こえないように言うと、蒼谷は渋々引き下がった。

これは神崎は心が読める人物であるから、敢えて言う必要は無いという事だろう。

流石と言わざるを得ない、かな。


「よし、神崎は加入決定だ。文句なしの即採用!」

兄さんは左手を神崎に差し伸べ握手を求めると、神崎は思い切り握り返した。


「よっしゃ! よろしく!」

神崎は俺と冷泉に向かって親指を立てると、早速兄さんにヘッドフォンを付けられていた。

ドラムパートのみの音源でも聴かせているのかな?

俺は一応全部のパートごとのを聴いてみたけど、どれも難しそうでよく分からなかったな。


「さて、裾野とあことしに代理で入ってもらって、全体のバランスを蒼谷に聴いてもらうとするか」

兄さんは厚い紙束を2人に渡すと、蒼谷が黒い台を2台持って来た。


 あれは一体……?


「これはギターのコードが書かれているスコアで、黒い台は譜面台ですよ」

裾野は紙束と黒い台を軽く持ち上げて言うので、また悪い癖が出てしまったのだろう。


「ありがとう」

俺は一歩下がって言うと、自分の夢の実現に近づいた嬉しさなのか頬を緩ませる兄さんを一瞥した。


「それじゃあ行くよ~!」

あことしが棒を何回か鳴らすと、最初の音が始まり俺のソロへと繋がった。


・・・


 その後のバランス調整というものは、俺には到底理解が及ばないものだった。

その証拠に先程から専門用語が飛び交っていて、俺の部分は蒼谷によって調整されている。


 それでも1つだけ確かな事があった。

ドラムとギターが入っても、俺のソロにドラム以外の音が無い。


 かなり責任重大だが、兄さんの気持ちに応える為だ。

やらなければ!!



 やがてバランス調整が終わったらしく、裾野とあことしにメンバー全員で礼を言った後、

「裾野。悪いんだが、殺し屋でギターが出来る人を探してくれないか?」

と、兄さんが依頼していたのには驚いてしまった。


 大体、こういった面倒で手が掛かるものは全部俺に投げるのに珍しい。


「ただ注意して欲しいのは、このバンドのギターの役割は、とにかく譜面に忠実且つ正確に毎度寸分違わずに演奏できる事だ」

兄さんは革製の肩掛けバッグから何か取り出そうとする裾野に、俺が目を見張る程真剣に言い放ったのだ。


「勿論です。それでは少々席を外させて頂きますね」

裾野はスマフォを取り出し、全員に一礼するとスタジオを後にした。


 彼の人脈については良く知らないが、あの性格と出で立ちだ。

長い兼業バンド生活の中での知り合いという者も多い筈。

役割については考えても分からないが、後は任せておけば大丈夫だろう。



 裾野が交渉している間、各自で譜面の確認等をしているが全く集中できない。

というのも、かれこれ30分は経っているが、一向に戻る気配はないのだ。


「……っ!!」

その時に指が力んでしまったのか、ベースの弦が切れてしまったのだ。


 どうしよう。

今まで慎重に弾いていたから切れる事は無かったが、どうやって換えるのだろう?


「何やってるんですか。貸してください」

様子が変な俺に気付いた蒼谷が俺から楽器を取ろうとするが、ゆっくり首を横に振った。


 今まで通り、いつまでも頼ってばかりという訳にはいかない。

そもそもバンドとして動きだしたら、自分でやらなければならない作業だ。


「自分でやる。教えて?」

俺が楽器を下ろし、ケースから予備の弦を取り出すと、蒼谷は小さく頷き手順を教えてくれた。



 蒼谷は普段話す時もそうだが、教える時も論理的で分かりやすい。

頭の中で説明と番号、そして矢印が繋がっていく感覚がある。


 やがて5分もしないうちに弦は無事に張り替える事が出来、俺はピンと張った弦を軽く撫でた。

「ありがとう」

蒼谷のおかげで見返しても理解できるように出来上がったメモを見せて言うと、蒼谷はほんの少し頬を綻ばせた。


・・・


 それから10分もすると、裾野が一回り以上小柄で華奢な男性を連れてスタジオに戻って来た。

その男性は、天使の輪が輝く艶々の黒髪を牡鹿モチーフのゴムで1つに結い、尻程まで伸ばしている。

両耳の前に垂れる横髪も棒のように真っ直ぐで、雪のように白く小さい顔や表情から窺える芯の強さ。


 何よりも意外だったのは、片桐組の隊服でスナイパーライフルを背負ったままやって来た事だった。


「申し訳ございません。彼しか興味を示すギタリストが見当たらなかったので、仕事帰りに来てもらいました」

裾野はバツが悪そうにしているが、それ程兄さんが示した条件が厳しいということだろうか。


「あくまでもレベルが合えばって言ったでしょ? お遊びの音楽ごっこに付き合う気は無いから」

男性は腕を組んで吹雪のような声色で刺す。

それにしても、音楽に興味があって実力もきっとそれなりにある事に驚愕を覚えざるを得ない。


「なるほど、面白い。ソロでかなりの実力がある事は聞いているよ」

兄さんは同じように腕を組み、小さく頷いている。

それは冷泉や神崎も知っているようで、同じように頷いていた。



「それなら、1週間後の午後3時に演奏を聴かせて。レベルが合わなければ引き受けない」

男性はピシャリと言い放つと、有無を言わせないまま出て行った。



 今まで割に順調にメンバーが集まっていたから、バンドを組んで初めて出来た壁に腰が抜けそうになった。

バンドに必要なメンバーである、ギタリスト・黒河月道(くろかわ るろう)の加入の可否という巨大な壁に。



 それにしてもなぜだろう。

ピシャリと言い放った黒河の言葉が、まだ頭の中で木霊している。


 勿論射撃技術の高さや性格は熟知していたが、自分に向けられると胸がツンと痛くなる。

兄さんや冷泉は勿論問題無いうえに、神崎は初日から俺とは比べ物にならない程の才能を発揮している。


 どうしよう?

俺のせいで折角興味を持ってくれた黒河が背を向けてしまったら。


 このバンドは――終わるのだろうか。



「早速聴かせて」

入口の扉が重々しく開き、外の冷気と共に響く声に俺は身震いしてしまった。


「それならドラムとギターにあことし、裾野が入ってください」

蒼谷がColours分の機材を準備している2人に声を掛けると、

「今居るメンバーでやって」

黒河が手で制したのだ。


 するとすかさず冷泉が一歩前に出て、

「颯雅――ドラムはまだ1週間前に入ったばかりだ」

と、諭すように言ったが、黒河は目を伏せて首を小さく横に振った。


 あくまでも聞く耳を持つつもりは無いようだ。

だが神崎は表情を一切変えないまま、棒を指の間で一回転させてみせた。


「なるほど、面白い。ギターが居なくても、調整した通りにやろう」

兄さんは俺に一瞬笑顔を向けると、後ろの2人ともアイコンタクトを取った。


「暁、深呼吸と人を3回掌に書いて飲み込んどけ」

それから兄さんは一歩俺に近づくと、身を乗り出して囁くので何度も頷いておいた。


 言われてみて手元に目線を落としてみれば、指が使い物にならない程震えている。

「……ありがとう」

俺は兄さんに聞こえるか聞こえないかの声量で呟くと、言われた通りにやってみることにした。


 しかし深呼吸をしようとしても途中で呼吸が突っかえてしまったり、人と書こうにもミミズが這ったような字になってしまったりしていた。

「……」

俺がすっかり肩を落としてしまっていると、ほぼ真後ろに居る冷泉から小さい笑い声が聞こえてきたのだ。


「大丈夫だよ。暁さんは今以上の困難を乗り越えてきたから」

振り返ると、いつも通りの笑みを浮かべる冷泉と目が合って、俺もつい頬が緩んでしまった。


 すると冷泉と神崎が親指を立てたり、大きく頷いたりしてくれていたせいか、俺も緊張から大分解放された。


 それを察したのか、兄さんはもう一度メンバーを見渡し、

「藍竜司作詞作曲、このバンドの最初に相応しいと胸を張って言える曲を作りました。それでは聴いてください――」

と、曲紹介を始めてくれたのだ。


・・・


 そうして紡がれ始めた旋律に黒河は眉1つ動かさなかったが、神崎のドラムの出来に時折頷く時もあった。

それもそうだ。

1週間前に入ったと聞いていたら、出来は高が知れている……筈なのだ。


 やがて曲が終わり、黒河は俺達に歩み寄ると、

「ボーカル、キーボードは申し分ない。それに、ドラムも悪くないと思う」

腕を組んで感心する素振りを見せたのだ。


 射撃を含め様々な事において、絶対に妥協しない厳しい姿勢を見せる黒河が感心するのだ。

皆が皆、やはり本物なのだろう。


 それから俺を一瞥した彼は眉を潜めると、

「ただし、ベースが下手」

吹雪の表情を見せて言い放ったのだ。


 分かっていた。

それでも俺はずっと目を背けていたのかもしれない。


 どこか――経験者や才能のある人たちとは違うんだと。

自分はまだ修行中なんだと、割り切ってしまっていたのだろうか。



「それでも神崎より長くやってる訳? 青龍暁、自分に足りないものが何か分かる?」

脳の血が引く感覚を味わいつつも何か答えを導きだそうとしても、黒河の問いを前に光は閉ざされていくばかりだった。


 お前の舞踏は終わりだ。

お前が下手だから、皆が損をする。


――何で何でってうっせーんだよ! お前が私に似たからだよ!!



 母親の暴力の理由を訊かされた時、もうどうにもならない物を前に俺は諦めるしかなかった。

立ち向かおうとも乗り越えようとも、受け入れようともせずに逃げていた。


 それでも変わりたくて自分なりに積み重ねてきた物を、"下手だ"という一言で崩されようとしている。

それなのに、俺は――



「暁は自分と向き合い、ある事を乗り越える為に楽器を――自分からやりたいって言ったんだ」

俯いてしまった俺の隣で黒河と対峙しているのは、柔和な表情を見せる兄さんだ。


 どうして。

いつもなら、俺の代わりに怒るのに。


「黒河が何事にも厳しく向き合っているのは俺も尊敬する。ただ、だからと言って人を傷つけて良いって事にはならないんじゃないか?」

兄さんは俺を横目で見ながらも言い聞かせるように言うと、黒河は肩をすくめた。


「あっそ。返事は後で裾野に伝えておくから」

黒河は呆れた表情で踵を返した。


「待て。藍竜さんの問いに答えろよ」

神崎がドラムセットから下りて声を張ったが、黒河は振り返る事も無くその場を後にした。



 だがその時に見てしまった"もの"に、自分ばかりが悩んでいるという思考を殺した。

というのも漆黒の手袋をしている黒河の右手が、明らかに――腫れているように見受けられたからだ。



 それにしても兄さんはどうして……いつもなら、前に出て暁に酷い事言うな等と強く言うのに。


 だけど俺は自分の言葉で向き合っている事を黒河に言えなかったのが、何よりも悔しかった。

変わってきたと思っていたのに、厳しい事を言われて足が竦んだ。

これでは前と同じ。


「暁?」

冷泉は肺が空になる程の溜息を吐く俺に遠慮がちに声を掛ける。


「……右手。どうしてあんな――」

俺は同じく心配そうに近寄って来た神崎にも聞こえるように呟くと、神崎が僅かに目を見開いた。


 スナイパーも利き手が腫れていたら、仕事にもならない筈だ。

なのに裾野は仕事帰りだと言っていたのは――黒河も、裾野と同じく両利きなのだろうか?


「よく気付いたな。あれはどう見ても――」

神崎が自身の右手で説明しようとしていた時、兄さんのスマフォが大きく震えた。


 あのバイブレーションのパターンなら父さんからだ。


 兄さんはスタジオの端に駆け足で行き、慌てたように言葉を交わすと早々に電話を切ってしまった。

「暁! 付いて来てくれ!」

そしてそのまま俺に向かって叫ぶと、全員に一礼してからスタジオを後にした。


 俺もそれに続き、兄さんの車に乗り込んだ。

AT車は逆に危ないという理由でMT車しか乗らない兄さんだが、今日ばかりは慌てている。


 何せスタジオの駐車場を出るまでに2回エンストしているからだ。

これでは4つの丸がついたメーカーのエンブレムも、着く頃には3つになっていそうだ。


「な、なに?」

命の危険を感じた俺は車を降りようとしたが肩を掴まれた。


「木田総合病院に向かう。事情は後で話すから乗っててくれ」

兄さんは大きく深呼吸をすると車を急発進させたので、シートに吸い込まれたような気がした。



・・・



 何とかエンブレムも取れずに病院に着くと、入口すぐ側の受付前に父さんが待っていてくれていた。

「司、暁。突然悪いな」

父さんは兄さんが大人っぽくなった姿そのものといった見た目だが、性格は俺と似ていて慎重だ。


「問題無いが、記憶はどのぐらいまである?」

兄さんは速足で先を行く父さんと並んで話しているせいか、いつもより早口だ。


 記憶に関わる病気なら、もしかして認知症だろうか。

そうだとしたら、俺の事は真っ先に忘れそう。


「俺の事はすぐに分かって、自分がどんな仕事をしてきたのかも分かっていたよ。だけどそもそも判明したのは、彼女の旧友のおかげなんだ」

父さんはエレベーターのボタンを押して言うと、数秒で扉が開いた為一旦口を噤んだ。


 それから浮かない顔で歩き去る人達を横目にエレベーターに乗り込むと、父さんは5階と書かれたボタンを押した。

「自分の話と食い違う点があまりに多かったり、旧友との出会いを覚えていなかったりと不審な点があったみたいでね。それで検査してもらったんだ」

操作盤すぐ横の壁に腕を組んで寄り掛かって言う父さんからは、元片桐組エースの貫禄と威圧を感じた。


 生憎現役時代の事はよく知らないけれど、片桐組総長から一目置かれる程には強かったらしい。

その証拠に兄さんが一時期片桐組に入隊した時に、名家でも何でもないのにすんなり入れたらしいから。


「なるほど。あの母さんが、な」

兄さんは寂しそうに溜息を吐くと、俺を見上げ眉を下げた。


 家族の中で唯一病に伏せた事がなかったから、兄さんも意外に思っているのだろう。

そのうえまさか記憶障害とは。


「…………」

だけど俺は何も言えなくて、ただただ目を伏せるばかりだった。


 母親とは良い思い出なんて1つも無い。

生まれてからずっと怒った顔や悔しがる顔、泣いた顔しか見た事が無かったから。

笑顔を見た事があるといっても、それは兄さんや父さんに向けられたものだったから。


 だからこそ、何を言ったら良いのか分からない。

俺は謝ってほしい訳でも、兄さんと同じように接して欲しい訳でも無い。


 俺に向けた笑顔を見たい。

それだけだ。



・・・



 やがて病室の前に着くと、兄さんが俺を振り返ろうと足を向けたがすぐに戻した。

「母さん、入るよ」

そしてノックをしながら言い、スライドドアに手を掛けた。


 母親も元殺し屋なので、様々な事を考慮して個室にしたようだがかなり無機質だ。

専用シャワー、トイレ付なのは良いかもしれないけど、それ以外はただただ白い。

閉めきったカーテンも扉も何もかも。


 逆に気味が悪く、長居は無用な気がしてくる。

「相棒、司と暁が来てくれたよ」

カーテンを開けて言った父さんは、普段母親の事を相棒と呼ぶ。

どうしてそう呼ぶのかも、違う組織に居た2人がどう出会ったのかも知らない俺には、何も説明は出来ない。


「おう。司は私の息子だな」

母親は男勝りで、兄さんに似ている。見た目は俺と似ていて派手な顔立ちだ。


 でも予想通り、端の方に居る俺の事は見ないようにしている。

「久々だな~。まさか母さんが大人しく寝ているとは思わなかったけどな」

兄さんが感心した素振りを見せると、母親は心底嬉しそうに頬に皺を刻む。


 どうして。


「相棒と俺の間には、もう1人息子が居るよ」

気まずそうにしている俺を見かねた父さんが遠慮がちに声を掛けると、母親は真っすぐ俺を射るように見た。


 兄さんに向けていた笑顔が段々と消え、眉が吊り上がっていき、俺を指差したと思えば――


「お前なんか知らないのに苛立ってくるんだよ!! 出てけ!!」

と、喉がはち切れんばかりの声量で叫んだので、慌てた様子の看護師が数人集まってきてしまった。


「出直そう」

父さんは俺と兄さんの手を引き、(わめ)き散らす母親を置いて去った。



 病室を後にし、ロビーに向かっていてもまだ聞こえてくる叫び声を反射させるようにこう言い聞かせていた。


――綺麗な声ですね。

龍勢や神崎が言ってくれた言葉。


 特に龍勢と初めて出会った時は、明らかに不審者に見られてもおかしくない格好をしていた。

虐待の痕を隠す為に肌を出せない状態だから。

それなのに、変な格好とも不審者だと叫ぶ事もなく普通に接してくれたのだ。


 俺を心の底から嫌い、暴力を振るうのはきっと母親だけだ。

大丈夫、大丈夫。

世界をもっと広く見れば、小さい事でしかない筈。


 そうセルフコントロールし終えた頃に、父さんは仕事に行くというので見送った。

「……戻る?」

俺は父さんの姿が見えなくなるまで見つめてから声を掛けると、兄さんは物憂げな表情でこう呟いた。



「バンド、休止させないか」

と。


 そのとき、自分でも形容しがたいドス黒い何かが心の奥底から湧き上がり、それを打ち消そうと視界を水が占めていったのだ。

これは紛れもなく俺にとってバンドが――


「俺の居場所を奪わないで!!」

頬を伝ったものに目を見張る兄さんを置き、本能のままに走り出す。


 自分を変えるきっかけになった大切な居場所を、母親の障害で潰されるなんて――これでは昔と変わらない!!

それに神崎や冷泉は優しい人達だから、事情を説明すれば休止に反対しないかもしれない。

そうしたら俺は……どうすれば――


「……っ!!」

前を見ずに走っていたせいか、ふと人にぶつかったような鈍い音がした。


「ごめんなさい!」

息を切らしながら頭を下げると、被害者は受け身を取っていたのかスッと立ち上がった。


「なんか聞こえたと思ったら」

しかも聞き覚えのある吹雪めいた声。


 もし想定している人物がここに居るとしたら、やはりあの手は。


「……黒河?」

俺は顔を上げて目が合った人物の名を呼ぶと、黒河は面倒そうに目を伏せた。


――ただし、ベースが下手。


 黒河に言われた言葉が頭を螺旋階段を下るように回りだす。

するとどうやら何かしらの形でネガティブな感情が表に出ていたようで、黒河は心底呆れた表情で溜息を吐いた。


「本当面倒臭い。どうせさっきの事気にしてるんでしょ?」

その言葉に俺は小さく頷くしかなく、その態度が気に食わないのか黒河は舌打ちをした。


「ムカつくから本当嫌いなんだけど、はっきり言わないと分からない訳?」

彼は母親と同じく眉を吊り上げて厳しく当たったが、打って変わって元の無表情に戻すと、

「ベースが下手だって言ったのは、技術的な事じゃないから」

右手を擦って言い、病院の正面玄関を潜ろうとしていたので衝動的に引き止めてしまった。


「何?」

温もりを知らなさそうな目で見上げる彼の右手を指差し、

「もしかして、腫れてるの?」

と、声を抑えて言うと、黒河は何も答えずに俺の手を振り払った。


 これからメンバーに入るかもしれない彼を、俺にわざわざ意図を教えてくれた彼を放って良いのか。

そう考えてしまったらいつの間にか、黒河の後を付いて行ってしまっていた。


「なんなの。……あれ、藍竜司じゃないの?」

黒河が顎で指した先には、たしかに兄さんが申し訳なさそうにこちらに近づいて来ている。


 だけど今は話したくない。

俺の居場所を簡単に奪おうとする兄さんとだけは、まだ話したくない。


 そう思い、頭を下げて謝罪の言葉を述べる兄さんを無視する俺に、

「意味分からない。はっきり言われてるのに、何ではっきり言わない訳?」

と、黒河が呆れきった顔で言ってくるが、誰もが彼のように過ごしてしまったら戦争が絶えない世界になりそうだ。


「……言いたくない」

俺は苛立った気持ちそのままを黒河に投げてしまうと、兄さんは寂しそうに目を伏せた。


「あっそ。病院で言い争われても面倒だから、どこか話し合える場所無い訳? 車で送るくらいはするけど」

黒河は周囲の目を気にしてくれたのか、俺達を引き連れて外に出た。


「乗せて」

俺は兄さんと2人きりになりたくなくて、黒河の背に声を掛けると彼は小さく頷いた。


「狭いけど我慢して」

黒河は入口付近に止められていた、Tを模したエンブレムが付いた黒色の車に乗り込んだ。


 小回りが利きそうな可愛らしい車だが、黒色であるせいか大人っぽくも見える。

実際に後部座席に乗り込んでみると、女性であれば丁度良さそうだが比較的背が高い俺には狭い方だった。


「青龍暁の短所は、1人で演奏するところ。周りの音関係なく譜面通り弾いてるから、バランス調整も苦労したんじゃない?」

ギアをDに入れ、緩やかに発進させながら言うと、バックミラーでバチッと目が合ってしまった。


 言われてみれば、ベースだけやたらと調整されていたような気もするが。

だがそれは俺に知識が無いものだとばかり思っていた。


 それに兄さんの歌ばかり聴いていたから、ドラムやキーボード、ギターの音はデモ音源のものしか覚えていない。

これでは纏まるどころか、俺のせいでバラバラになるかもしれない?


「バンドは全員で音を作るって習わなかった訳? 作曲担当が出してきた音源をアレンジしながら曲を作るのが基本だから、デモの譜面通りに弾ければ終わりじゃない」

黒河は法定速度でブレーキを感じさせないようにドライブしながら言うと、しゅんとしている俺を見て小さく溜息を吐いた。


「折角音色は悪くないのに、物凄く勿体無いんだけど。……本当、(すい)に似てる」

片手でハンドルを回しながらもしかめ面で言ったが、腹違いの兄である騅の名前をだした途端表情が和らいだ。


「……そう?」

俺はどう返して良いか分からず視線を泳がせると、黒河は「そういう所が似てる」と、ギアをRにしながら言った。


 それにしてもナビを使わずにスタジオの駐車場まで戻ってくるとは。

相当方向感覚が良いのだろう。


「ありがとう」

乗せてくれた事、意図を教えてくれた事に対して礼を言うと、黒河は何も言わずに車を降りた。

これが彼なりの返事なのだろうか。


「……」

数秒後に兄さんの車が駐車場に入るのが目に入り、俺は駆け足でスタジオに向かった。


「面倒だから話し合って。入るかどうかはそれから決める」

黒河は護身用の狙撃銃の装弾数を確認しながら言うと、一足先にスタジオに入った。


「俺なら……」

呟きながら兄さんの足音から逃げるように扉を開けると、見事に全員と同じタイミングで目が合う。


 すると俺の中で段々と"変わる"事への道標が出来上がっていき、一度崩された舞踏は再び光を浴びて開演のブザーが鳴り響くのであった。



 嗚呼、長かった。

いや、永かったのかもしれない。


 母親の事、声の事、そして司――兄さんの事。

何もかもから逃げて、只管避けて生きてきたけど、やっと向き合えるようになった。


 それはほんの些細なきっかけだった。

たとえ龍勢や神崎は覚えていなくても、俺の心の中にはずっと生き続けている。



 それを今、バンドのリーダーである兄さんによって消されようとしている。



 黒河はハッキリ言わないで流されてしまいそうになる俺を、面倒が掛かるから嫌いだと思っているだろう。

でもデータ上の彼の性格とは違って、放っておかずに言葉を掛けてくれている。


――腹違いの兄である騅に似ているという理由で。


 冷泉は一緒に楽器を買いに行ってくれて、それまでも兄さんの事で相談に乗ってもらっていた。

俺のもう1人の兄、と言いたいところだけど、冷泉の方が年下だからしっかり者の弟かな。

だからそんな彼がメンバーに入ってくれた時、月並みだけど本当に嬉しかった。


 ようやく漕ぎ出せそうな船を、いとも簡単に沈めようとしないで。



 楽器を始め、バンドも始めた頃を思い出していると、いつの間にか兄さんが俺の隣に居た。

だけど見下す俺を見上げる事もなく、厳しい表情で拳を握っている。


 母親の障害で休止することを話すのだろうか。


「急に抜けて申し訳なかった。母親がアルツハイマー型認知症だと診断されたから、会いに行って欲しいと父親に頼まれたんだ」

兄さんはいつでも皆の前では堂々としていて、俺の前だと迷ってばかりいる。


 それがいつも辛かった。


「母親はほとんどいつも通りで、まだ症状も軽いようだった。だが――」

と、口を噤み唇を噛む兄さん。


 蒼谷、裾野、あことし、冷泉、神崎、そして俺達の背後に立つ黒河。

皆が皆、兄さんの次の言葉を待った。


「どのように病状が進行するかは不明だ。だから俺は……折角集まってくれたが、バンドを休止しようと思っていた」

全員にそれぞれ目配せし、言葉を選びながら話す兄さんは、それでも堂々としていた。


 でもいつもと1つだけ違うのは――言い終えた後に、俺を見上げて微笑んだこと。


「だが……始めようと言ってくれた暁がこのバンドを、自分の居場所だと言ってくれたんだ。だから休止にするのは止めた」

段々と視界がぼやけてくる俺に、いつまでも微笑み続けている兄さん。


「愚かだった。本当に申し訳ない。暁がそこまで1人で向き合えていると思っていなくてな」

そう言い、背中を擦ってくれている兄さんに、俺はただただ頬を伝うものでしか気持ちを伝えられなかった。


 それでも神崎はフッと微笑み、冷泉は笑顔で見守ってくれている。

黒河は後ろに居るから分からないけれど。


「いつまでも昔のままでは進めないな。もう、俺も迷わない。……暁の言葉、心から感謝するよ」

兄さんはハンカチで俺の涙を拭きながら、そっと囁いてくれた。


「うん。俺、ずっと1人で演奏していたの、黒河が教えてくれた。兄さんの歌ばっかだった。だけどもう今日から違う」

俺はハンカチを借りて自分で拭ききってしまうと、腕を組んで扉に寄り掛かる黒河を一瞥した。


「ここで自信をつけて、母親に何言われても怖くなくしたい」

再び流れるものを拭き、裾野たちと冷泉、そして神崎に向けて言うと、背後から安堵の溜息が聞こえてきたのだ。


「それがバンドでもあり、仲間なんじゃない? 青龍はずっと自分の世界の中で、只管自分を責めてたんでしょ。それじゃ――」

黒河は感心したように肩をすくめると、踵を返しドアノブに手を掛けようとしていたので、

「待って」

と、半ば衝動的に腕を掴み、

「俺の居場所、皆の居場所のバンド続けるには、1つ足りない。ギターが居ないと……その。無くなるから、無理なお願いだと思うけど――」

言葉に詰まり、断られたらどうしようかと戸惑いながら言うと、黒河は打って変わって呆れたように溜息を吐いた。


「誰が無理だって言ったの?」

こちらを振り返り、ほんの僅かに目を細めた黒河は、もう既に覚悟を決めているようだった。


「え……」

俺は「絶対に無理」と言われると思っていたので、拍子抜けしてしまい掴んでいた腕を放した。


「何度も言わせないで。ギターとして入るって言ってんの」

眉を吊り上げているものの、黒河の目の奥からは温かみを感じられた。


 絶対無理だと思っていたのに、俺を見捨てずに――メンバーを見捨てずに承諾してくれたのだ。

これ程嬉しいものはない! ようやく漕ぎ出せる!!


「ありがとう!」

湧き上がってくる興奮を抑えきれず、黒河の手を取ってしまったが、特に嫌がる素振りを見せなかった。

むしろ、懐かしそうに瞳の奥を見つめられているような気がした。


 しばらくすると冷泉と神崎も側に寄ってくれ、冷泉は4人に聞こえるようにこう言ったのだ。


「これからは暁だけじゃない。俺達全員で成長していくんだ」

と。


 すると神崎がハッとした表情になり、

「バンド名は決まってるんですか?」

と、4人を見回して言った。


 だがそれぞれ固まった表情のまま、神崎の言葉を咀嚼している。

ここはリーダーの兄さんが何か言ってくれるのか、それともまた俺任せなのか。


「Geranium」

数秒経って兄さんが零した言葉に、黒河以外は大きく頷いた。


「それが良いね」

冷泉は俺に微笑みかけて言った。


 Geranium――ゼラニウムは、4月3日の誕生花。

つまり俺の誕生日の花。

そのうえ、桜と同じピンク色をしたゼラニウムの花言葉は「決意」だ。


 これから歩き出していく俺達にぴったりだろう。


 だがただ1人、首を捻り納得していない様子の黒河は、

「は?」

と、不満そうに眉を潜める。


「文句言うならなんか言ってみてくれ」

神崎がすかさず突っ込みを入れると、黒河は顎に手を遣り考え込んだ。


 その間にColoursの3人は、これからここで練習するのか機材を用意し始めた。

蒼谷に至っては楽器を肩に掛けているので、もうすぐ始まるのだろう。


「それなら、Resoluteはどう? 毅然としたって意味だけど、全員論理的に動くタイプでしょ――青龍以外はね」

そう淡々と言う黒河は、どこかバンド活動を楽しみにしているのか声色が若干だが明るかった。


「たしかにな」

神崎が冷泉、兄さんと微笑みあっている。


 嗚呼、これまで延期され続けていた舞踏が本当に始まるんだ。


「それならこうしよう」

冷泉はジャケットの胸ポケットからメモ用紙を取り出すと、筆記体でスラスラと文字を紡ぎ出した。

ものの数秒で書き、4人に見えるように掲げてくれた冷泉。


 そこに書かれていたのは。


――Resolute Geranium


「は? 何で複数形じゃない訳?」

黒河はまたしても不満そうに腕を組み直す。


 それは流石に俺でも分かる。

だってゼラニウムは――


「暁しか居ないから」

心を読んだかのように目を細めて言う冷泉に、黒河以外は同じように目を細め、静かに微笑みを交わした。


 黒河は冷泉の意図を知ってか知らずか、仕方なさそうに頷くと、

「ゼラニウムはたしか、4月の花だったよね?」

俺にしか聞こえないように呟いたので、3人に気づかれないように頷いておいた。



 すると丁度準備が終わったのか、裾野がバンド名で呼びかけてくれ、

「これからColoursの練習なのですが、見ていきますか? 参考になるかは分かり兼ねますが……」

と、気恥ずかしそうに言うので、全員がそれぞれのタイミングで頷いた。


「ゆーひょんと佐藤が遅刻ですね。あの2人は常連なので諦めてはいますが」

蒼谷がスマフォをあことしと裾野に見せながら言うと、あことしは金色の蓋を叩いてはしゃいでいた。


「だがゆーひょんは賢いぞ。キーボードを置いていっていたからな」

裾野はキーボードの用意もしていたようで、鍵盤に手が当たると音が鳴った。


「そうですね」

だが蒼谷は棒読みで言葉を並べ、チューニングをするように裾野に呼びかけた。


・・・


 それから5分後。

慌てた様子で駆けこんできたゆーひょんと、逆に余裕綽綽(よゆうしゃくしゃく)で歩いてくる佐藤に一同は呆れかえってしまった。


「遅れてごめんね! キーボードセットしてくれたの聖でしょ。ありがとね!」

ゆーひょんの実物を初めて見たが、浅黒肌の巨漢なのに不思議と威圧を感じさせない優しそうな青年だ。

それは恐らく彼の内面から出るものもあるだろうが、腕に付けているピンク色のシュシュがそうさせているのかもしれない。


「構わない。それにしても佐藤?」

ゆーひょんには笑顔を向けていた裾野が、佐藤の分のチューニングをしながら怒りを込めて言うと、

「マイスウィートハニー、ごめん」

佐藤はあっさり全員に謝っていた。

それは言うまでもないが、裾野と佐藤は片桐組時代に交際していたからだ。


 そんな佐藤は小麦肌の巨漢で威圧と貫禄を感じる。

自分の世界に入れるのは裾野だけ。

そういった雰囲気が出ている。


「お待たせしました。改めまして、Coloursリーダーの蒼谷です。それではまずこちらの曲を聴いてください――」

全員と目を合わせ、頬を緩めた蒼谷が紹介を始めると、先程までしゅんとしていた遅刻組も笑顔を見せるようになった。



 ギターとボーカルを務める佐藤の息継ぎで始まった旋律を、なんと全員で歌い始めたのだ。

楽器は誰も弾かず叩かず、声だけで始まる。

言われてみれば、Resolute Geraniumは兄さんにしかマイクが無い。


 やがて楽器も入り、全員が笑顔で本当に楽しそうに演奏しているのを見ていると、俺も始めて良かったと心から思える。

それと同時に、楽器を弾きながら1人ずつボーカル以外のメンバーが歌っている部分があって、心が躍った。


 俺も兄さんや他のメンバーと一緒に歌えたら、どんなに心が躍るだろう?


・・・


 しばらくして曲が終わると、蒼谷が再びアイコンタクトを取り、

「最後の曲は、貴方達を見守ってきた裾野と、裾野の話を聞いていたゆーひょんが作詞し、私が作曲致しました」

と、俺達を柔和な表情で見つめながら言ったのだ。


 蒼谷がリーダーで作曲もして、裾野とゆーひょんが作詞をして、佐藤とあことしは自分達の部分をアレンジしたのだろう。

これが全員で曲を作る――バンドなんだ。


 殺し屋で忙しい中、皆で作り上げたんだ。

純粋に俺達の為に曲を作ってくれた事も嬉しいが、バンドの在り方を見せてくれた事が特に嬉しい。


「聴いてください。"Blossom Beat"」

と、蒼谷が言い終えると同時に裾野と佐藤のギター、そしてゆーひょんのキーボードから紡がれるメロディー。

そしてまた全員でメロディーを繋ぎ、一語一句逃さないように歌詞を心に染み渡らせていった。



 瞼を閉じて、見ないように聞かないようにしていた事から逃げず、聞こえた通りにやってごらん。

それに影響され、眠っていた声を覚まして集まってくれる仲間と鼓動を合わせてやってみて。


 歌詞の内容をまとめるとこうなる。

片桐組同期でバンドを始め、一度裾野と佐藤の除隊という形で解散して、再び集まれたColoursだからこそ言える事だ。


 裾野らしい言葉選びに、データ上ではあるがゆーひょんの人柄も分かる素晴らしい詞。

そして蒼谷のイメージとは違って、明るくてアップテンポのやる気がみなぎるような曲。


 どのメロディーにも心が躍りっぱなしで、自分達でも誰かの心を躍らせられるか、挑戦したくなってくる。

曲の終わり頃に、俺は心からこう思えた。



――色々心が痛む事もあったが、変わって良かった、と。



 そう考えている内に音の余韻が消えると、俺達は無意識に拍手をしてしまった。

観客は俺達5人だけなのに。


「ありがとうございました。藍竜さん、どうでしたか」

蒼谷が兄さんに感想を聞いている時、俺は左隣に居た冷泉と顔を見合わせた。


「1人1人歌うの、やりたい」

俺は肩を大きく回して言うと、冷泉は微笑みながら頷いた。


「それ、全員歌上手くないと出来ないんだけど」

だが冷泉の隣に居た黒河が口を挟むと、俺は眉を下げ俯くしかなかった。


 今まで歌った事なんて無いからだ。

でも今はその前にやる事がある筈。


「黒河、病院は?」

察してくれたであろう神崎が黒河の隣に行くと、観念したように肩をすくめた。



・・・



 一通りColoursに挨拶を済ませ、全員で行こうと兄さんに言われるがまま病院へ向かった。

どうしたんだろう? 黒河も子どもじゃないのに。


 病院に着くと、受付の人が目を見張り眉を吊り上げた。

「先程受付だけして、すっぽかしましたよね!?」

と。


 そう言えば、あの時受付だけしていたような。


「すみません」

黒河は素直に謝り、空いていたらしくすぐに診察室に通されていた。



 それから5分ぐらいして戻って来た黒河の右手は、包帯で1.5倍ぐらいの大きさになっていた。

診察結果は、腱鞘炎。

狙撃には関係ない部位らしいから、ギターの練習のし過ぎしか思い当たらないらしい。

ずっと1人で、只管磨いてきたのだろう。


「じゃ、俺達の母親の所に行こう」

兄さんが神妙な面持ちで全員に向かって言うと、それぞれ何かしら解釈したのか頷いた。



 そうだ。

バンドを組んだと母親に報告するのだろう。

だけど俺の事も言うのかな。


 声をまた……何か言われないかな。


「俺に任せとけ」

すると病室を前にした時に兄さんが肘で小突いて言うので、俺は瞼を閉じて口元を緩めた。


 やはり兄さんは兄さんだ。


 病室に入り兄さんがカーテンを開け、母親のベッドを前に横一列で並ぶと、兄さんは思いきり息を吸い込み、

「俺達はバンドを組んで、これから殺し屋と両立させて走り出すんだ。そのきっかけは、俺じゃない――暁が声をあげてくれたんだ」

と、今までの"良い子"だった自分から決別するかのように言う兄さんに、母親は笑みを見せた。


「仕事柄顔は出せないからメディアでは隠すけどな、デビュー曲は決まってる。"Restart"――俺達それぞれの再出発だ」

兄さんは笑みを見せた母親の視線が俺に向かい、若干苛立ちを見せていても構わずに凛とした表情で話したのだ。


「そうかよ。応援してやっから、やってみろ」

母親は他のメンバーにも笑みを見せ、最後に俺に再び向けられた時――僅かに頬が緩んだのだ。


 声をあげた事に、怒らなかった。

何も……言わなかった。

笑顔を向けてくれた。


 これで俺は晴れて――


「はい!! ありがとうございます」

俺達は息を揃えて返事をすると、そのまま病室を後にした。



・・・



 今からでも遅くない。

40代を迎えた俺でも、変わっていく自分に自信を持つんだ。

相変わらず兄さんの事は心からは好きになれないし、喧嘩もする。


 それでも今は1人じゃない。

前を向かせてくれて、一緒に前を向いてくれるメンバー、そして藍竜組の隊員が居る。

……両親も。


 心の傷は一生消えないけど、乗り越えて音楽や他の事に活かす手はある。

とはいえ、今だって乗り越えられてなんか無いから挑戦中とでもしておこうか。



 そのきっかけは何気ない一言、態度で良い。

あの屈託のない、無垢な笑顔と"あの一言"で良いんだ。



 ――現在に戻る――



2018年4月12日 彼誰時(かはたれどき)

光明寺家付近 貸倉庫

青龍暁(せいりゅう あかつき)



 大分長く話してしまったが、鳩村も龍勢も欠伸1つ零さずに聞いてくれた。

むしろ途中で龍勢は涙ぐんだり、笑みを浮かべてくれたり、感受性豊かな一面を見せてくれたのだ。


「あ、ありがとう……ご、ござ、います。副総長を、見る目が、変わり、変わりました。リゾゼラ、顔、出ししないバンドで、ゆ、有名、ですよね」

鳩村は頻りに目を泳がせてはいるが、ぺこぺこと頭を下げた。

話す前、彼にはかなり警戒されていたような気がしたが、今では見受けられない。


「せやね! 私の一言でここまで変わったなんて、めっちゃ嬉しいです!」

龍勢があの時のように無垢な笑顔を見せると、俺も釣られて微笑んでしまう。


「ありがとう――」

俺は空を見上げ、今まで自分1人で悩んできた過去へ別れを告げた。


 Resolute Geranium――世間でリゾゼラと呼ばれるバンドは、Coloursに匹敵する程のバンドとして名を上げてきている。

演奏技術はまだまだでも、必ず母親を笑顔にする為――過去を皆で乗り越える為に練習しないと。


 こうして龍勢や鳩村に話した事で、舞台にようやく少し足りなかった光が灯る。

何度でも自分は変われる。

一度やれたのだから。


 これまでもこれからも、俺は二度と1人で踊らない。

やはり、兄さんは好きになれないけど。

ここまでの読了、ありがとうございます。

作者の趙雲です。


14話、舞踏いかがでしたでしょうか。

分割している後編を本日(12/21)纏めておきました。


次回投稿日は2週飛んでしまいますが、来年1月4日(土) or 1月5日(日)でございます。

それでは良いお年をお迎えくださいませ。


作者 趙雲

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