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プログラムピクチャーの名匠

8.



ジャンルを問わず何でも器用にこなす三隅は当然ながら会社にとって都合の良い監督であった。社員監督として会社の思惑通りに映画を制作し、その作品の出来映えにはそつがなかった。黒澤明や小津安二郎、市川崑と言った名匠と呼ばれる監督とは一線を画し、こだわりの薄い会社の路線に沿った作品を手がける監督であり、所謂、名画と称されるような作品を世に出すことはできないでいたが、秀作、佳作と言われる類の作品を数多く出していた。しかも、さほど労することもなく、作品を練り上げほぼスケジュール道理に仕上げる能力に長けていた。会社にその腕を見込まれ、プログラムピクチャーの担い手として重宝されることになったのである。

映画が娯楽の王様であった時代、映画会社は制作・配給・上映までの全ての権利を一手に握り、映画館の上映に対しても左右する体制をとっていた。実質的なカルテルの状態である。映画会社は何れも週単位で次々に映画を制作し、小屋(映画館)に架けていった。そうしなければ、他社に追い打ちをかけられてしまうのである。人気のある作品は上映期間を延長するが、人気のない作品は早々に打ち切らざるを得ない。その時、穴を開ける訳には行かないので、ロスなく作品を作り続けなければならないのである。映画会社は年次計画プログラムを組み、自信作、意欲作を数本制作し、それを埋めるように並の作品を制作する、そこにプログラムピクチャーと呼ばれるものの意味があった。そのため粗製濫造の作品も少なくなかったが、三隅の作品は何れも力作揃いであり、しかも比較的低予算でしあげるものだから会社からは重宝された。

しかし、そのことが三隅を苦しめることになる。多くの場合、自分の意思とは無関係に、会社の計画に合わせて作品を作り、酷使されることとなった。三隅は自分自身の首を絞めることになったのである。それにも関わらず、それをまた快く思わない連中もあり、三隅はその者達から嫉妬されることにもなった。

前章の最後に三隅の作品にはどこか無常観が漂っていると記したが、三隅作品の魅力はそこにあったと言える。三隅の作品が観客に受けたのは、登場人物が放つ無常観や刹那的な姿勢が観客を共感させたからである。

三隅は世間から疎外され、抑圧され、あるいは迫害される登場人物が持つ孤独感や厭世観を時にさりげなく、時に露骨に描き出す。その描写の妙は誰にも真似できない。それは三隅が自らの生い立ちや現に置かれている境遇を知らず知らずのうちに登場人物に重ねているからでもあろう。

善人悪人とを問わず、三隅はそれぞれの人物に潜む暗部に共感を寄せる。三隅にとって、善と悪は絶対的なものではなく、また、その区別はさほど重要ではない。ストーリーの進行上、いずれかの視点に立たずにおれないだけで、立場を入れ替えれば別の物語が成立する、そのことを三隅は理解しているのである。そして、三隅にとっては何より重要なのは登場人物の思想背景、とりわけ、その人物が背負わされた宿命なのである。

三隅作品に勧善懲悪や絶対無比という考えは必要ない。それ故、非の打ち所のない完璧なヒーローが登場することもない。主人公は大抵、自らの境涯に悩み苦しみ、そして怯えている。ある者はそのしがらみを断ち切ろうと自らの境涯に果敢に挑み、ある者はその境涯から懸命に逃避しようとする。三隅の考えるヒーローとはそういうものであり、アメコミのような完全無欠のヒーローが敢然と悪に立ち向かい大立ち回りを演じるなど三隅の頭にはない。それどころかヒーローが常に悪を成敗するという正義必勝の筋書きなど興味を示さない。ヒーローがそうであるなら、悪役もまた道理をわきまえぬ極悪非道の輩としてステロタイプ化しては描かない。正義と悪の関係が単純な対立軸によって成り立つものではないことを三隅はスクリーンを通して観客に教えるのである。

三隅は人間を、また社会を冷却した眼差しで見つめる。冷却とは心を通わせないという意味ではなく、不用意に感情移入しないという意味であるが、三隅の作品を見ると、自らの思想を投影していると分かるシーンや、登場人物に自分自身の姿を重ね合わせているようにも思えるシーンが随所に見られるが、その描き方は実にあっさりしている。あっさりとしていながら、淡々とした表現の中に登場人物の人間性や人間模様を浮かび上がらせ、物語の展開を余談なく見せようとしているように思われるのである。

だからと言って三隅作品は決して押しつけがましくはない。三隅作品に流れる「三隅流」というべきスタイルは最大公約数的なものであり、三隅という個性を無理矢理、観客に押しつけるものではない。それは三隅が芸術家気取りの監督ではなく、職人肌の監督だからであろう。

三隅は作品に自分なりの味を添えるが、決してその個性を前面に押し出すような真似はしないのである。三隅はリメイク作品もいくつか手がけているが、前作のイメージを全く壊さないようにしながら、自分なりのアイデアを盛り込んでいく。『大菩薩峠』などはその典型である。また、原作に対しても割合い忠実である。

三隅が良くコンビを組んだ市川雷蔵は『炎上』でガラリとイメージを変え、演技派俳優としての名前を挙げたが、この作品を監督した市川崑は三島由紀夫の『金閣寺』を原作としながら、恰もその作品世界をずたずたにするような演出を行っている。『金閣寺』で三島は美というものに拘り、美しいが故に燃やしてしまうという主人公の歪んだ心理を正当化して描写したが、市川はそれを愚かと鼻であしらうように描いた。三隅は作品に対する自身の考えはあるものの、原作者が抱いている考えをまず尊重し、その再現を徹底することに努め、その間に所々、自身の美学や人生観を盛り込むのである。

シリーズものの作品でも同様である。映画会社は各社とも古くからシリーズものを良く手がける。

松竹の場合であれば、『男はつらいよ』や『学校』、東映の場合であれば高倉健や藤純子らを看板に据えた任侠シリーズ、東宝の場合はゴジラ映画などである。松竹や東映の場合は、『男はつらいよ』を山田洋次が、『極道の妻たち』は五社英雄がというように一人の監督に固定されている例が多いが、大映の場合はシリーズものの場合でも、作品ごとに異なる監督が担当し、作品に幅を持たせようとするのが特徴であった。

三隅も『眠狂四郎』『座頭市』『子連れ狼』などのシリーズものでメガホンを取っている。これらの作品でも三隅は不用意に自己を主張していない。しかし、三隅が考えたアイデアがその後の作品を特徴付ける場合が多い。

『眠狂四郎』のニヒルなイメージは勿論、原作にもあったが三隅が監督したシリーズ第二作『眠狂四郎勝負』によって決定づけられたと言っても過言ではない。

『座頭市』シリーズの場合は、子母沢寛の原作では盲目の侠客と言う設定だけで、特に具体的な人物像が示されている訳ではない。第一作『座頭市物語』で三隅は居合いの達人で、五感のうち視覚が不自由であるほかは研ぎ澄まされており、耳や皮膚の感覚で相手との間合いを計り、切り倒すという特技を有しているとしており、この設定が全シリーズを貫いている。主演の勝新太郎はとかく脚本に注文をつけ、監督の意見と衝突することで有名であったが、三隅のお陰で座頭市の人物像が特徴付けられシリーズ化したことを喜び、三隅とのコンビを望み、三隅には決して注文をつけることがなかったと言う。

『子連れ狼』は小池一夫作・小島剛夕画の劇画を原作としているが、これも三隅がメガホンを取った座頭市シリーズ第8作『座頭市血笑旅』をモチーフにしていると言われる。シリーズ第一作『子を貸し腕貸しつかまつる』のラストは凄惨であるが滑稽でもある。拝一刀が振り下ろした刀が相手の脳天をたたき割り、そのまま身体を真っ二つに割る。このアイデアは三隅のものではない。三隅はこのようなトリッキーな演出をしたり派手な殺陣を描くのは好まない方なのだが、『子連れ狼』シリーズを続ける中で次第に自身もそうしたシーンを好むようになり、寧ろ積極的に取り入れてようとアイデアを出していく。『子連れ狼』は荒唐無稽なシーンが良く出てくるが、主演の若山富三郎の要望に沿って、三隅はじめスタッフがこぞって考え出したものである。乳母車から機関銃のように銃弾が飛び出したり、荒唐無稽なシーンを三隅は愉しんで作っていたと言う。

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