審美眼と無常観
7.
三隅作品は時代劇ばかりが冴え渡っている訳ではない。『婦系図』や『女系家族』『巨人 大隈重信』など多様な作品において、三隅は腕を奮い素晴らしい作品に仕上げている。三隅がメガホンを取ると、どのような作品であっても彼らしいテイストが随所に盛り込まれ、それでいて独り善がりでない、大衆好みの最大公約数的な作品に仕上げる。人間のもつ純真さやひたむきさ、誠実さ、慎み深さをいささかの外連味もなく素直に描き出すかと思えば、貪欲さやいやらしさ、狡猾さもまたそのままに何ら繕うこともなく描き出す。男女の関係ひとつとっても、打算のない純真な愛情の表現に執着するではなく、互いの欲得が交錯し合うどろどろとした関係をも写し撮る。三隅の作品には無駄な描写はなく一切の妥協もない。だが、何れの作品においても彼の描く映像世界は無条件に美しい。それは美というものが決して一元的なものでないという独特な考えによるものなのだろう。美しさとは対極にある筈の醜さと一体なのだと言うことを作品を通して三隅は我々観客に教える。
三隅は映像世界の美を演出するためにとにかく女優を美しく描く。役柄とは無関係に女優自身が持つ個性を引き出し、画面に写し撮る。無類の剣豪に助けられる姫役は口元にほのかに笑みをたたえたか弱い純真な女性として、他方、悪役の方は目が吊り上がり如何にも狡猾そうな女性として、と言うようなステロタイプな撮り方は決してしない。どんな役柄であろうと、美貌はそれとは無関係に存在し、妖艶さやたおやかさ、しなやかさ、などの女性らしさと言ったものを変幻自在に演出するのである。そのために、三隅は着物の柄や色合い、襞の陰影と言った細部にまで拘る。如何に女優の美しさを際立たせるかを三隅は絶えず計算に入れているようにも見える。しかし、それは計算と言うよりも、直感なのかも知れない。三隅は女優というよりも女性全般について類い希な審美眼を有していたのだと思われる。女優たちがどのように自分を撮って欲しいか、その心理を三隅は他のどの監督よりも心得ていたのではないだろうか。
悪役であっても観客を魅了する美しさを備えさせる。それはややもすれば作品の世界観を歪めさえしかねないが、三隅に限ってそれはない。ただ、共演する男優に誤解を与え、嫉妬させることもあった。
『眠狂四郎無頼剣』(1966年)で、狂四郎を演じた雷蔵は、主役の自分よりも敵役の愛染の方が華麗に撮れていることに腹を立てたという逸話が残っている。
女優たちは三隅の作品に出演することを非常に喜んだと言うが、女性に対する先入観のない眼差しが好まれたのであろう。女性に対する三隅の感性は、その生い立ちに負うところが大きい。とするのは話として面白い、が、それは余りにも短絡的である。妾腹の子と言う素性は、三隅の人格形成においてさまざまな面で影を落としていたのは間違いではないだろう。だが、女性に対する捉え方が同じようにその生い立ちに負うものとするのはいささか軽率である。三隅はシャイなところがあったと言う。そのシャイな側面が生い立ちによって培われたというのはまだしも理解できるが、それは女性の捉え方に直ちに結びつくものではない。三隅はシャイであり女性と付き合うのが得手の方ではないために、人並み優れて、女性を見る目が肥えていたのだろう。
三隅は春画の蒐集を趣味にしていたそうだが、男女の絡み合いが露骨にあるいは誇張して描かれる絵図の中から、性愛において女性の性というものを読み取ろうとしたのだとも言える。蛸に陵辱される女性の顔面に浮かぶ愛欲に満ちた表情などから、三隅は何物かを得ていたのかも知れない。とまれ、三隅が女優を美しく描こうとする根源は素性と言うよりも、その探究心にあったのだろう。
先に、三隅の映画には妥協がないと述べたが、女優の描き方のみならず、死体をありのままに映し出すのも特徴と言えるだろう。
時代劇はとかく死者が出る。
何人、死者が出たかがキャッチコピーになるほどである。
しかし、多くの場合、画面の中での死者の扱いはぞんざいである。斬られたらそれでお終い、それは確かに現実ではあるが、三隅はそれで終わらせない。かと言って、死体に対して執拗な感情移入も寄せ付けない。
三隅が表したいのは、死という事実だけなのである。
死者と因果を結ぶ人々の心情などどうでもよく、果たし合いや闇討ち、あるいは辻斬り、如何なる殺戮のシーンであったとしても、敗れた者は単にその場に倒れるのではなく、死という結末を以て討ち果てるのである。それを三隅はこれ見よがしに観客に見せつける。
そうしたシーンは主人公でさえ、やがてそれと同じ運命を辿るのだということを予感させる。
三隅の妥協のない映画とは絶対と言うものが存在しない無常観の表れであると言えよう。




