映画制作の名手
6.
三隅が「大菩薩峠」や「釈迦」を撮っていた頃は、彼自身が映画監督として最も脂が乗っていた時期である。そして、それは映画の最盛期であり、大映にとっても全盛時代であった。三隅は田中徳三、池広一夫と共に「大映三羽烏」と称され、数々の名画を撮り大映京都撮影所を支えていた。
前節でも少し述べたように、三隅作品の特徴は背景によって台詞やナレーション、字幕などなくしても、次に来る場面の展開を観客に予感させるところにあった。
三隅は背景を完全なまでに様式化して取り込み、それぞれの場面ごとの事象に一体化させる。
閑寂とした林の中で対峙する二人の侍。木々の梢が擦れ合う音だけが聞こえる。その時、悲鳴にも似た野鳥の声が響き渡る。次の瞬間、どちらかが斃れるであろうことを観客は察する。そして、事実、そのように場面は展開する。あるいは、柱によって画面が仕切られ、襖の手前と奥とで時間の進行を暗示的に表したり、対照的な事物を据え、陰と陽の対比を表すなど、一切の説明抜きで、情景のみによって場面の展開を示すのである。
三隅にとっては、音楽も効果音も大して意味をなさない。殺陣のシーンで刀が擦れ合ったり、抜刀する際に余計な効果音を入れたりしない。そもそも効果音が彼にとっては余計なものなのである。
時代劇ではおなじみの刀を抜く際の鞘音は、黒澤明監督が最初に採用したものだが、そのようなものを三隅は必要としない。勿論、派手な音楽も極力拒む。三隅にとって必要なのは、自然の物音である。
サラサラと流れる小川のせせらぎであったり、梢が擦れ合う音であったり、木枯らしであったり、鳥の羽音であったり、そういう自然の中に存在する音を用いることにより、、絵と一体になって情景を醸し出し、観客のインスピレーションを刺激するのである。
三隅は背景を以て登場人物の心象風景を描き出す名手であったと言える。これは誰にもそう簡単にできることではない。わが国きっての名監督と称賛される黒澤明監督や小津安二郎らでさえ、到底、敵わぬものと言って過言ではないだろう。
三隅の手法についてもう少し見てみよう。
作劇と言う点から見れば、映画はストーリーの順を追って撮影するのが本来、芝居構成の上において正当だと言える。舞台演劇の場合なら順序を入れ替えたりなどすれば、観客はさっぱり内容が分からず混乱してしまう。回想シーンなど場面展開が遡行するような場合においても、ストーリーとしてはそれが順当であり、そのことが観客にはっきりと分かるようになされなければならない。例えば、男が道端で膝を抱えてうずくまっている。その側を通りかかった別の男が「どうしたのか」と訊く。すると、うずくまっていた男は「実は急に腹痛がしたもので」と答える。そして、昨夜、友人らと鍋をつついたのだが、どうやらその中に入れた魚が腐っていたらしいのだと言って、前夜のことを詳しく話し出す、とする。時系列的には前夜の話は遡行しているのだが、ストーリーとしての順序が間違っているわけではない。寧ろ、この場合、前夜の話から始めたとすれば、通りすがりの男の存在は意味がなくなり、ストーリーは別のものに変わってしまうのである。
重要なことは事象の起こる時系列ではなく、ストーリー展開における順序である。演劇の場合はその順序通りに進めるほかない。ところが映画の場合には撮りだめをしておいて後でいくらでも編集が利く。大抵、映画はそうして作られていくものである。しかし、中には「順送り」と言われるストーリーの順序通りに撮影していくことに拘る監督もいる。三隅の師匠である衣笠貞之助などはその類である。この方法はしかし、同じセットを何度も作り直さなければならないなど却って面倒なことが多い。
それに対して、同じセットを用いるシーンが断片的に散らばっているような場合、それらを一遍にまとめて撮りだめておく方法を「中抜き」と言う。同じ背景で同じ人物が登場するのであれば、まとめて撮った方が効率が良いし経費を抑えることもできる。第一、タンスの上に載った置物の配置のズレや色合いの変化など微細な点に気を遣う必要もない。三隅は「中抜き」が得意であった。
スタッフの受けも良かった。衣笠の場合は、同じセットを何度も拵えなければならないので非情に手間がかかるし、狂いのないようにするために相当気を遣ったと言う。三隅の場合はその点は慮外となるので楽だったらしい。しかし、それだけに三隅自身は映画全体の構造が正確に頭の中に入っていなければならず、セットは同じでも情景が異なる場合、その違いを意識して撮影に臨まなければならない。とは言え、情景を描き撮るの才に長けた三隅にとって、それは難なきことではあった。
三隅にとって映画は芸術というより職人芸であった。三隅は黒澤や小津らに代表される芸術指向の映画人とは違って、娯楽としての映画を指向していた。ストーリーの立て方や背景の描き方などにおいては、三隅ほど天才的な監督はいないと言えるが、彼はその才能を芸術の側に指向することなく、大衆の好みに合わせてあくまでも娯楽として供する方向に向けていた。
それ故、三隅は会社にとって非情に便利な存在であった。会社は三隅をプログラムピクチャーの担い手として重宝していた。
プログラムピクチャーとは年間の制作本数を決め、それを元におおよその演目を定めてプログラムを組み、それに沿って制作する映画のことである。映画全盛期の頃は、どの映画会社もそういう映画の制作を行っていた。例えば、盆正月上映、ゴールデンウィーク上映などの映画はその代表である。これらを事前に決めておくと、年間スケジュールが立てやすいのである。例えば、映画会社はその年一番の作品を数本、送り出しヒットを狙うとする。それがヒットすれば良いが、ヒットしなかった場合は別の映画を掛けなければならない。そんな場合に備えて、作るのがプログラムピクチャーである。シリーズ物などはそれに適している。松竹の「男はつらいよ」や東映の任侠シリーズなどがその類である。大映も勝新太郎の「座頭市」、同じく勝の「兵隊やくざ」、市川雷蔵の「眠狂四郎」などを制作していた。
プログラムピクチャーの制作を務める監督は第一に器用でなければならない。その点で三隅は打って付けであった。三隅は別の監督が撮った作品の続編などもうまくこなした。「眠狂四郎勝負」や「座頭市物語」、「大魔神怒る」などにその才能が発揮されている。