時代劇映画の監督
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わが国に映画がもたらされたのは1896(明治29)年である。鉄砲商人の高橋信治トーマス・エジソンの発明によるキネト・スコープを持ち込み、神戸の神港倶楽部で上映したのが始まりである。これはしかし、江戸時代からあったのぞきからくりと同じで装置の前に座った者だけが楽しめるというもので、大衆に供されるような娯楽では決してなかった。
映画が現在のようなスクリーンに映し出され大衆が楽しめるものとなったのはリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフィがもたらされたことによってである。だが、当初は実験的なモノばかりで、これも大衆が楽しむことのできるような代物ではなかった。
わが国で最初に興業的に制作された映画は牧野省三監督による『本能寺合戦』である。牧野はこれを皮切りに『菅原伝授手習鑑』『明烏夢の泡雪』『児島高徳誉の桜』『安達原三段目袖萩祭文の場』『桜田騒動血染雪』の5本の作品を撮り、「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助を主演に『碁盤忠信 源氏礎』よって本格的に映画監督としてメガホンを取る。「映画の父」と呼ばれるようになった牧野の下で内田吐夢、衣笠貞之助、息子のマキノ雅弘、松田定次、沼田紅緑、金森万象らの監督が育ち、日本映画の黎明期が築かれていった。当時の映画の多くは時代劇で歌舞伎や大衆演劇から発展したものだった。
阪東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介らスター俳優も生まれ、映画界において時代劇は花盛りであった。日本映画は時代劇によって生まれ時代劇と共に育って来た、と言っても過言では無い状態だった。
その後、映画が大衆娯楽として発展し、その代表格にまでなるにつれ、映画はさまざまなジャンルに巾を広げていくが、その中心はやはり時代劇であった。無敵の侍がバッタバッタと敵をなぎ倒していく勧善懲悪の単純明快なストーリーは大衆を魅了し、数々のヒーローを産み出した。史実に題材を求めるものもあれば、架空の物語を題材にしたもの、人情物、争闘物、さまざまだが、時代劇と言えばチャンバラ、殺陣のシーンは欠かせない。それを楽しみに観客は小屋と呼ばれた映画館に駆けつける。映画館は大勢の観客で賑わい、笑い、泣き、拍手し、歓声をあげる。
しかし、昭和に入ると、日本は世界の趨勢に揉まれ戦争への道を歩み出す。そして映画の世界にも軍国主義の波が押し寄せ、軍国調の色彩が濃い作品が増えるようになってゆく。軍国調の映画に押されて時代劇映画は他のジャンルと同様に次第に影を潜めるほかなかった。
第二次世界大戦が終わると、敗戦国となった日本はGHQの占領下におかれる。GHQは軍国主義の復活を阻止するという名目でさまざまな規制を加えるが、映画も例外ではなかった。中でも時代劇は”好戦的な”日本人には刺激的であり戦争意欲を掻き立てるものとして、舞台の上演や映画の上映が固く禁じられた。そればかりか時代劇以外の映画でも、子供たちがチャンバラごっこをするシーンが登場すると、日本国民の”好戦欲”を煽るとしてカットされるというほどであった。
戦前、剣劇スターとして銀幕を飾った俳優たちは活躍の場を失い、時代劇から離れるほかなく、現代劇の世界に身を転じた。それによって成功した者もあったが、現代劇に不向きと自認する俳優は身の置き場を無くし、映画の世界から去る者もあった。殺陣の達人と評された近衛十四郎などは映画の世界では生きていけないと考え、舞台に活路を見出したのはその例である。近衛の場合は舞台での経験が、後に映画に復帰して活かされたが、誰もがそうではなかった。
この頃は、時代劇にとってまさしく不遇の時代であった。
しかし、時代劇に対する国民の熱望は強く、映画界の方もそれに応えるように、恐る恐るながらチャンバラシーンなどを巧みに取り入れるようにし、そういう流れの中でGHQも、日本の国民感情との間に妙な軋轢が生じるのを避けるために徐々に解禁していく。そして、映画は再び時代劇ブームを迎える。
三隅が時代劇映画の監督として活躍したのは、この「戦後の時代劇ブーム」と言われる時代なのである。三隅にしてみれば、その波にうまく乗ることができ、幸運であったと言えよう。三隅は時代劇を中心に次々と作品を発表していく。時代劇の間に、現代劇なども撮影し、活躍の場を拡げていくが、やはり三隅が本領を発揮したのは時代劇である。
三隅の描く主人公はどこか風変わりである。そもそも原作が風変わりな人間として描いている場合も勿論あるが、三隅なりの解釈によって変えていると思われるところがある。
例えば、市川雷蔵主演の「桃太郎侍」(1957年)では、主人公の桃太郎を明朗快活な人物として描いている。これは雷蔵自身が二枚目半の役どころを演じたいと求めたことでもあるらしいが、三隅は台詞を詰めてテンポの速い映画にするつもりで、雷蔵にそううまく演じて欲しいと求めているのである。桃太郎侍はいくつか撮られており、高橋英樹演じるテレビドラマシリーズは有名になったが、恐らく、三隅研次、市川雷蔵コンビが描く桃太郎侍はそれらと異なるイメージを持たれることと思う。
三隅は俳優の個性を引き出すとともに、登場人物を自分の頭の中で自在に描き分ける名手であったのだろう。1章の冒頭で妾の子として生まれ育った三隅の性格が作品に投影されていると記したが、決して三隅は暗い影を背負い続けていたわけではない。時に明るく、時に陰険に、時に豪放磊落に映画の登場人物を自分なりに解釈し自在に動かしていく妙は他の者にはなかなか真似のできるものではない。しかし、それには三隅の出自が影を落としているのだと思える。彼自身が斜に構えるということでも、歪んだ性格であったというのでもないが、物事を安易に受け入れるのでなく、違った角度から受け止め、自分なりのテイストで仕上げていく、そういう意味では”へそ曲がり”の人物であったのだろう。
そんな三隅の転機ともなったのが『釈迦』である。
当時、各映画会社とも正月映画や夏休み映画に所属のスターを一同に介するオールキャスト映画を作るのがならわしのようになっていた。忠臣蔵や幕末物などの定番の時代劇を楽しみに映画ファンが集まってくる、そういう時代であった。
大映もまた負けじと、三隅を監督にオールキャストで望んだ作品が『釈迦』である。