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シベリア抑留帰還者

2.


三隅がシベリアのどの辺りに抑留されていたかは定かではない。三隅自身も余り語りたがらなかったし、シベリアからの帰還者には当時、黙して語らずの風潮があったようである。

それほどまでに抑留生活は酷いものであったと言うことなのかも知れない。

実際、その後、次第に明らかになってきたシベリアでの捕囚生活は凄惨なものだったらしい。

捕虜と言うと、農作業や土木工事あるいは未開地の開拓などの労働に当たらせられるものと考えがちである。それらは苦役ではあっても有益な作業である以上、何らかの価値も見出すことができる。しかし、古くからロシア式拷問というものがあり、無益で無意味な労働を延々繰り返させられるのである。例えば、一定の深さの穴を掘らせ、掘り終わると今度は、掻き出した土をその穴に埋める、埋め終わったらまた掘らせる。そのことを繰り返させるのである。あるいは積み上がった煉瓦を遠方まで全部運ばせ、運び終わると、また元の位置に運ばせるというものまであったそうだ。

これは無益で無意味なばかりでなく、人間の思考を停滞させてしまう。そうなると、人間は抵抗する意欲さえ失ってしまうのである。きつい労働というのであれば、人間はそれに痛みや苦しみを覚え、あるいは苦役に対する不満を覚え、それが怒りとなって現れ反抗することにも繋がる。苦役に耐えかね、発狂寸前になった囚人らが徒党を組んで武装蜂起するという話は実際にある。スパルタカスの反乱はその最も有名な例である。

為政者にとって、そのような反乱は極めて都合が悪い。反乱の火種は必ず飛び火し拡大するからだ。

ロシアはそのことを良く熟知しており、捕虜や奴隷らをいたずらに痛めつけるのではなく、反抗的な意識の芽を摘むことに主眼を置いたのである。

捕虜らを使役することによってその労働で有用なものを生みだしたとしても、果たして素直に使役に応じたものかどうかは信用できない。例えば鉄道の敷設に当たらせたとしても、鉄道の一部に細工をし脱線事故を起こさせるような仕掛けをしないとも限らない。あるいは捕虜らが拵えた製品はわざと欠陥があるようにされているかも知れない。そうした不安を抱えるくらいなら、意味のある労働をさせるよりも、徹底して意味のない労働をさせ、思考を鈍らせる方が得策だと考えるのである。

このような所謂いわゆるロシア式拷問を、シベリアでも行われたと言うのである。徹底して無益で無意味な労働に従事させられた捕虜たちは考えることをしなくなり、生きる気力どころか死ぬ気力さえ奪われてしまった。まさしく社会主義を標榜するソ連の横暴である。否、もともと日ソ中立条約の失効まであと僅か残しながら一方的に破棄し、疲弊していると分かっている日本の統治下にある満州に攻め入ったことに大きな誤りがあったのだが、戦争中のことであり、この点は見過ごしたとしても、停戦後、捕虜は取らない、また既に捕虜となっていた者は釈放するとしていた方針を翻し、固定化してしまった点は非難を浴びて当然である。

シベリア抑留の背景には関東軍とソ連との間に密約があったとする説もある。日本を泥沼の戦争状態に陥れていった軍部でもとりわけ、その責任重大なる関東軍幹部らは自らの保身のために満州及びその周辺に滞留していた日本兵を見殺しにしたと言うのだ。

現在、シベリア抑留については過去のものとして恰も清算されたように映っているが、このことは決して忘れてはならないだろう。

さて、三隅であるが、彼はこの抑留生活について多くを語らなかったが、同僚らの話では、どうやらシベリアでも奥地であったらしく、特に酷い厳寒で食糧も乏しい地域だったように推測されると言う。

どこか鬱屈したような生来の気質に加えて、抑留生活はさらに三隅を苦しめ、先の見えぬ人生に失望させられただろう。それが彼の作品に陰を落とすことになったのではあるまいか。

三隅は二年の抑留生活を終え帰国すると大映株式会社に入社する。大映は、第二次世界大戦が始まって間もない1942(昭和17)年、戦時統制の一環として、新興キネマ・大都映画・日活製作部門を軸とした合併によりできた会社である。国の政策としては松竹と東宝の二社体制とする予定であったが、国策映画制作を主とし政府寄りの経営方針を打ち立てることによって両者の間に割り込むようにして設立された。大映には6つの撮影所があったが、三隅が居た日活京都撮影所もその一つであった。

第三勢力として設立された大映の記念すべき第一作は阪東妻三郎・片岡千恵蔵・嵐寛寿郎・市川右太衛門の四大スターの共演による『維新の曲』(監督・牛原虚彦)であった。これを皮切りに、大映は次々に大小さまざまな作品を世に送り出す。

戦後1947(昭和22)年、GHQにより、戦時中の翼賛運動を推進したとして、社長であった菊池寛が公職追放の対象とされ、辞任する。代わって社長となったのは、大映設立の中心人物であった永田雅一である。しかし、その永田も1948(昭和43)年、公職追放される。

そのような中で三隅は映画人として復帰し、伊藤大輔、松田定次、衣笠貞之助らの下で助監督を勤め、腕を磨いていった。

時代劇の決闘シーンの構図やカット割は助監督時代に身につけたものである。

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