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透徹したリアリズムの中に悲哀と孤独を描く映画人

1.


「明日のために、今日を生きては居らぬ。無頼の性根が、おれを生きつづけさせている」

これは時代小説の大家、柴田錬三郎の代表作「眠狂四郎」の台詞である。眠狂四郎は転びバテレンと、その宣教師が転ぶ切っ掛けとなった日本人の娘との間に生まれた無頼の剣客である。転びバテレンとはキリスト教を禁じていた江戸幕府の下で、拷問あるいは迫害によってキリスト教を捨てた宣教師のことを言う。狂四郎の父も禁教令によって投獄されたところを、同部屋に収監されていた娘と交わり、以て背教の罪の意識から棄教するのである。

そうしたいわくつきの出自の故か、狂四郎はニヒルでクールである。

「眠狂四郎」の中に次のような台詞もある。

「死にたくはないが、生きたくて生きている男ではない、と思って頂こう」

命を賭けた果たし合いの場で、相手に向けて放つ言葉であるが、これこそが狂四郎の生に対する彼の真髄であるのかも知れない。

そして、こんな台詞もある。

「おれは、目を開けている間は、いつもおのれを欺いている。いや、それとも、おのれに欺かれているのかも知れぬ」

ここには虚無というより他に表しようのない心情が吐露されている。あやふやなおのれという存在と向き合いながら、わざとそれから目を背け、細い一本の糸の上で辛うじて己を成り立たせているという、それはあるいは出自から去来する本能とでも言うべきなのかも知れない。

この時代小説には稀有けうなアンチヒーローを見事に演じきったのが、市川雷蔵である。雷蔵はかねてより大映を背負うトップスターであり、勝新太郎と並び二枚看板と称されていた。市川雷蔵は歌舞伎界から映画界に転身した、当時、大映の若手ホープであった。一見して秀麗な面持ちというのでもないが、色気の漂う風貌で所作が行き届き、二枚目俳優として多くの女性ファンを魅了した。三島由紀夫の「金閣寺」を原作とした「炎上」では二枚目俳優の殻を脱ぎ捨て、一転して吃音の木訥ぼくとつな青年層を演じ、その演技力が高く評価された。しかし、その彼を後世に名を止めさせるまでの銀幕スターに押し上げたのは、ほかでもない『眠狂四郎』シリーズである。そして、その中でも第二作『眠狂四郎勝負』は、シリーズ化を決定づけた作品であり、シリーズ中で最も優れた作品のひとつである。

この作品を監督したのは三隅研次と言う気鋭の映画作家であり、彼自身がまた「眠狂四郎」を体現したような人物であった。

柴田錬三郎の「眠狂四郎」に

「……わたしには、不幸な育ちかたをした者のみが持っているかげが、わかるのだ。わたし自身のひねくれた根性が、この識別に、役に立つ」

という台詞があるが、これこそが三隅研次という人物の根底に潜む性格の正体を表しているように思える。三隅は、どこかひねくれたところのある性根故に、作中の登場人物や俳優の人物像を識別し、それぞれの俳優の個性を上手く引き出し、作品の中に投影していったのだろう。


三隅は、1921(大正10)年に、神戸の貿易商と京都の芸妓との間に生まれた。正式な結婚によるものではなく、所謂いわゆるめかけの子である。妾という言葉は今ではそういう事例が減ってきたということもあるからだろうが、余りお目にかかることもなくなってきた。昔は、富豪や名士と呼ばれる人たちが、金や地位にあかせて妾を囲うことが少なくなかった。

春日八郎の『お冨さん』にある「粋な黒塀、見越しの松」は、妾宅しょうたくを象徴的に表したものであるが、果たして三隅の母がそのような家に住んで居たのかは分からない。

京都の芸妓には古くからのしきたりがある。通常は、十代に舞妓となって花街かがいに入り、約五年間の修行を積んだ上、「えり替え」という習わしを経た後、芸妓となる。そして、ご贔屓がつくようになり、やがてそのご贔屓筋の中から芸事から生活まで一切の面倒を見てくれる「旦那だんな」がつくと、「水揚げ」というならわしによって一人前となるのである。「水揚げ」とは旦那と寝所を共にすること言うのであり、十代に花街に入ってくる芸妓らはそれまで客として以外で男性と特別な関係になるのを禁じられているので、つまり処女を固く守ることとされているので、「水揚げ」によって初夜を迎えることとなるのである。

旦那が付くと言うのは、決して夫婦めおとになることではない。パトロンとして身の回りの資金の面倒を見て貰ったり、「都をどり」(祇園花見小路では「都をどり」、宮川町では「都おどり」)などの興業の世話をしてもらったり、着物や帯を買って貰ったりするのである。

もし、夫婦となるのであれば、その時は芸妓を辞めるのが慣わしとなっている。それは痴情による無用ないさかいを避けるための一つの智恵によるものだろう。

また、置屋おきや女将おかみとなると、女児を産むこと、結婚してはならぬこと、が厳格に義務付けられる。

三隅の母も、そういう京都の花街のしきたりによって、妾となったものであろう。妾を持つのは男の甲斐性とされた時代であったが、妾やその子供はやはり肩身の狭い思いをせねばならぬ身分であった。花街で仕事を続けるには、誰かに子供を預けるほかなく、その子供は肩身が狭い上に孤独を味わうことになる。

三隅は成人するまで母とは一度も会ったことがないという。

彼はそういういびつな幼少時代を送っている。果たして、暮らし向きは如何ばかりだったのだろう。それは定かではないが、子供を預けて座敷に上がらねばならないほどだったから、妾といえども悠々自適の暮らし向きではなかったのかも知れない。とは言え、当時としては珍しく大学にまで進学しているのだから、貧困にあえぐような暮らし向きでもなかったのではないだろうか。三隅は中学を卒業すると立命館大学専門部商科に進んでいる。安藤百福の段でも述べたが、専門部とは今で言う専門学校であり、正確に言うと大学ではない。

大学卒業後は日活京都撮影所に助監督として入社する。日活と言えば、かつては東宝、東映、松竹と並ぶ大手映画会社である。その京都撮影所は太秦にあり、後に日活が大映傘下に入ると大映京都撮影所となり、さらにその後大映の倒産により閉鎖され、今はない。

太秦は蒲田などと並び、日本のハリウッドとも称される映画のメッカである。今も東映と松竹が撮影所を構えており、東映太秦映画村というユニバーサルスタジオジャパンのような映画のテーマパークまである。

三隅がどういう思量で日活京都撮影所に入社したかは定かではない。本人の回想録などもなく、憶測で語るしかないが、思うに複雑な環境に育った彼は、それ故に培われた屈折した性格では普通のサラリーマンなど向かぬものと考えたのかも知れない。あるいは、芸妓の母の血を受け継ぎ、芸能に対する関心が強かった故かも知れない。果たして、真相はどうだったのだろう。

さて、三隅は監督としての下積みも不十分な中、1942年、軍に召集され満州へと配属される。当時は国策映画がたくさん作られ、そのために軍に招集される映画人が多かった。しかし、映画人としての経歴も浅い彼は、軍属の映像技師としてではなく、一般の兵士として召集され戦地に赴いたのである。

幸いにも戦地では命拾いすることができたが、戦後、ソ連軍に捕囚ほしゅうされ1947年までシベリアで抑留生活を送る。

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