一 こくぶんじ
国鉄の改札では学帽を目深に被った学生が切符を切っていた。
チョコレート色の電車は赤錆と床油の匂いがして、ホームの砂利ブロックのすき間では夏草が小さな花をつけていた。
レールを曲げてつくられた柱には「こくぶんじ」と白抜きされたブリキ板が括り付けられていた。
国鉄の改札では学帽を目深に被った学生が切符を切っていた。
駅舎やボンネットバス、目につくものはみな曇天に染まっていた。
南口の「ビリヤード」の看板には前から気付いていたが、その建物に入るのは初めてだった。
うす暗い階段をぐるりと昇りつめて、ガラス扉を押すと「ギィ」と鳴った。
道化顔の男がいた。
上背をひねり、キューを立てて上から玉を突くマッセの構えだった。次の瞬間、乾いた音がして象牙玉が曲芸のように絡みあった。
男の対戦相手やゲームとりはいなかった。
「いらっしゃい。」
店番がイヤホンを外して立ち上がった。
「麦茶でもどうぞ。」
「俺は泡が出るのをもらうよ。」
あのひとは勝手に保冷庫から純生の中瓶を取り出した。
道化顔が突くたびに、四つの玉は必ず台の中程に集まった。それは中ゼリという洗練された技だった。
あのひとはそんなのは全く無視して迎え酒のビールをうまそうに飲んだ。
カウンターに吊るされた日めくりは昭和43年の七夕を示していた。
グラスについた汗がゆっくりと流れていた。
突然、ピンク色の公衆電話が一回だけ鳴った。
同時にミスショットの濁音がして、玉は無様に散った。
「選挙の勧誘かしら、今日はよく電話が鳴るの。」
「そこの卓球場がこの辺の投票所らしいね。」
「旦那さん、よくご存じで。」
「『選び抜こう任す人』とかっていう垂れ幕が出てたよ。」
「あれは小学生が考えたそうですよ。」
道化顔は憮然とタップにヤスリをかけていた。
「終わります。」
と、道化顔が言葉を発した。
「こっちは休んでますから、お構いなく。」
「坊やを待たせたら、可哀相だし。」
「こいつは背が足りないから見てるだけです。ひとつ、教えてもらえませんか?」
「いえ、失礼します。」
道化顔は店番に何かをつぶやいて出て行った。
「そろそろダービーの出走かな。」
「残ったビール、飲んでいいよ。」
「いらない。」
あのひとは石けんを使って指先から手首までを外科医のように丁寧に洗った。指の節に塗られた赤チンが少し薄くなったようだ。
「ブラシ借ります。」
羅紗にブラシをかけただけで、さきほどの道化顔の技量は承知したようだった。
「本人は気付いちゃいまいが、ミスの原因は電話じゃなかったな。」
とつぶやきながら、仕上げに玉を拭くと表面に蛍光灯が何列も映った。
「玉が笑ってらぁ、始めまーす。」
無造作に貸しキューを引き抜くと練習が始まった。
一回のバンキングで台の傾斜と湿気を把握、次のショットでは四つ玉をコーナーに寄せた。
あとは何百回でも当て続けることができるはずだ。
もし試合なら対戦相手には1回しか順番が廻らない。
それからの小一時間は、わざと石の継目や台の傾斜を使ったミスの練習していた。
「ひとが出来ることは自分も出来そうな気がしないか?」
それはそうだと頷いた。
「それが人の本能だ、お前も歩けると思ったから歩くようになったんだ。」
そんなことは覚えていない。
「本能だからな。」
「大人になると本能よりも経験を信じるようになる。だが、ガキ大人もいる。いつまでも自分が主人公だと思い込んでいるが、猿股脱ぐとケツが青い。そうだ、これから、青ケツを見に行こう。」
あのひとは、
「終わりまーす。」
と、言うと紅白の四つ玉を木箱に納めた。
「ひと風呂浴びて、また来ます。その時は古い馴染みということで。」
あのひとはハイクラウンチョコレートの詰まった茶袋をカウンターに置いた。
「スマートボールの景品だけど、こいつが鼻血を出すといけないんで貰ってください。」
「旦那さん、これはどうも、ありがとうとうございます。ぼく、お返しに松月堂さんのお菓子を持っていきなさい。」
「ありがとう。」
「旦那さんのお名前は?」
「とよす。」
「では、とよさん、のちほど。」
「じゃぁ」
昔の事を思い出したり、調べながら書いています。
当時をご存じの方、位置関係などをご指摘いただけましたら幸いです。