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「真司くん、締め切りわかってる?」
立花先輩に質問されたのは六月も半ば、梅雨真っ盛りのかたつむりが歩いていそうな湿気の中でだった。並んでいるおれと先輩の傘を小雨が跳ねてはすべり落ちていく。いつまでたっても鳴りやみそうにないその音は、飽きるくらい聞いている。今年の梅雨は長雨らしく、しばらく太陽の姿がなかった。
この時期に太陽と雲が競争をしたら、太陽の大敗北で幕を閉じるだろう。
もっとも、先輩が作ってくれたプロットをおれは少しも活用できていなかった。あれから部室には何度か顔を出したが、持ち込んだ本を読むか、先輩とお喋りをするかで、原稿用紙にペンを走らせることはしていない。
先輩はそんなおれになにも注意はしなかったが、鈴森だけがときおり冷たい視線を投げかけた。彼女がいったいなにを書いているのかしらないがとにかく執筆ペースだけは良いらしく、タイピングの雨音にはすっかり慣れてしまった。けど、『猫缶』の発行日が楽しみだとは口が裂けてもいえそうにない。
おれは眉間にシワを寄せてる先輩に向かって答える。
「夏休み前でしたっけ」
「で、もう六月も半分終わったわけだけど」
「いやですねえ。もうすぐ今年も半分過ぎちゃいますよ」
「そのとおり。だからそろそろ書き出さないと……」
「――わかってますよ」
間違って水たまりを踏んづけてしまう。
隣にいた先輩にも飛沫がかかって、舌打ちをされた。
「わざとでしょ」
「違いますよ。誤解です」
「じゃ、謝罪の代わりに書いてよ」
「わかってますよ」
「そういって、ずっと手を付けてないじゃない。短編のプロットだってせっかく作ったのに」
「わかってるんですけどね」
肝心な一文目が出てこようとしないのだ。おれの頭に鎖でつながれているかのように。その一行さえ書けてしまえば、一気に出来るような確信はあった。それなのに意固地なくらい書けない。
「才能ないんですかね、やっぱり」
「才能の問題じゃない。真司くんの気持ちが、小説に向かってないだけ」
「向けてるつもりなんですけどね」
「なにか、悩んでることがあるでしょ。恋煩い? 鈴森さんかな?」
「んなアホな」
「それは冗談だけどさ。真司くんが悩み事を抱えてるっているのは本気だよ。小説書くのは楽しいんだけど、同時に辛い作業でもある。本当に調子がいいときは自然と筆が進むし、自分がキャラクターになりきれる。反対に気分が乗らないと、ほんの数文字すら書けなくなる。そういうものなの」
「仮にそうだとしても、恋じゃないし、鈴森が原因でもないです。それだけは確実です」
「あたし『猫缶』よりも真司くんのこと心配してるんだよ」
先輩はまるでおれの姉貴みたいな口調だった。
傘がぶつかる。雨滴が落ちていくのが見える。先輩の傘は赤と緑の季節外れなクリスマスカラーで、おれのは地味な紺色だ。帰る方向が途中まで同じなので、部活のあとはいつもこうしてふたりで話すのだが、今日の先輩はやけにおせっかいだ。
「期末テストが近いからかもしれませんね」
「はぐらかさないで。真司くんが小説を書けないのは――」
「人を病気みたいにいわないでください」おれは語気を荒らげながら先輩を遮った。「たかが小説がなんですか。書けないなら問題がある? ふざけるのもいい加減にしてくださいよ」
「別にそういう意味じゃ……」
「おれには才能がないんですよ。それだけです」
おれは早足に先輩を振り切った。後ろから呼び止める声がしたが、止まることなく、おれは家路を急いだ。どうせすぐ姉貴に連絡が行って様子を見に来ることだろう。余計なお世話だと正面切って叫びだしたいくらいだった。
先輩がおれのことを気にかけるのは『猫缶』が無事に刊行できるか不安だからなのだ。おれがいなければ『猫缶』は成立しない。だからおれを気遣うふりをして、さりげなく原稿のことばかり聞き出そうとする。
誰かに期待されるのがこんなにも気持ち悪いことだとはじめて理解した。期待されないのと、同じくらいに不快だ。
道端に落ちていた小石を力任せに蹴りつけようとする。クリーン・ヒットはしなくて、あさっての方向へ飛んでいった。これがサッカーボールだったらおれはきちんとコントロールできただろうか。
自信はなかった。
考えているとさらにむしゃくしゃして、闇雲にかけ出す。すぐに息が上がった。肺の奥が痛んだ。