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学校にいくと、隣の席にはすでに鈴森が座っていて、いつものように読書にふけっていた。周りの雑踏など耳に入らないみたいにゆっくりと文章を追い、次に移っていく。おれにはこんな賑やかなところで本を読むことはできないだろう。そんな慣れないことをしていれば「エロ本か!」とかいってうるさい連中がすぐに寄ってくる。
腐ったバナナにたかるハエみたいなものだ。うるさいだけで、とくに実害はない。
教室の座席にはもうあらかた鞄が置いてある。おれは眠い目をこすりながら鈴森の横に腰を下ろした。
「おはよう」
挨拶に気づいたのか、本に栞を挟んで机にしまった。珍しくカバーをつけているのでタイトルはわからなかった。
「昨日あのあと、どうだった」
話題の切り出し方としては上々だ。おれはひそかに満足しながら彼女の返事を待つ。
「しばらく話してた。そのあと、帰った」
「それだけ?」
「うん」
「先輩はなんだって?」
「よかったら文芸部に入って欲しいって頼まれたから、そうすることにした」
淡々と事務的に報告するが、それは理想的な結果にほかならない。
立花先輩も、鈴森という後輩部員が入ったことで一安心だろう。肝心の『猫缶』を発行するための安定数には達していないが、もうひとりくらいならなんとかなりそうな気がする。
おれは彼女に素直に感謝することにした。無理やり押し付けるつもりだったことは隠しておこう。
「ありがとう。先輩も喜んでると思うよ」
「うん。ちょっと涙ぐんでた」
「だろうな」
「で、井原くんにも入ってもらいたいって」
「おれは遠慮しとくよ。『猫缶』と立花先輩に協力するのもこれっきり」
「どうして?」
「昨日、先輩にもらった『猫缶』を読んだんだ。短かったけど、すげーって思った。おれにはあんな真似とうていできそうにないし」
「自分もやってみたいって思わなかった?」
鈴森が小首をかしげる。が、その目は笑っていなかった。
「無理かな。おれにはできないよ」
「そうなんだ」と鈴森はつまらなさそうにいった。「入りなよ、文芸部。楽しいかもしれないよ」
「いいよ、べつに」
「残念」
そうつぶやくと興味をなくしたみたいに、再び読書の世界へと戻っていった。
おれとしては釈然としない気分だったが、どう説得されたところで文芸部に加わるつもりは毛頭ない。鈴森がどういう気まぐれで入部を決断したのかしらないがおれには関係のないことだ。
けど、やはり、一応の経緯を把握しておく必要はある。
おれは放課後に文芸部の部室へ顔を出してみることに決めた。教室のチャイムが鳴る。その日の授業中、鈴森と会話する機会は一度もなかった。無口な隣人は、ときとしてすこし厄介だ。
部室には、立花先輩がぽつんとひとり座っていた。
雑然とした荷物置き場という印象は相変わらずだったが、前回とは違い部員用の席はふたつ用意されている。おれが「お邪魔します」といって入ると、鼻歌を歌っていたらしい先輩はニコニコしながら椅子を出してくれた。
鈴森はまだ来ていない。
おれは彼女が到着する前にさっさと本題を切り出した。
「昨日、あの後なにを話してたんですか」
「うーん……いくら真司くんとはいえ教えられないかなあ。きみ、意外と口が軽いみたいだし。昨日あたしのとこにカナからメールがあってきつく叱られたんだよ。今度なにか奢らなきゃならないハメになったし。真司くんに請求しといてってお願いしたんだけど、ちっとも聞いてくれやしない」
「べつに隠すことじゃないでしょう。鈴森がどうして急にあんなことを頼んだのか知りたいだけなんです」
「なに、好きなの?」
「おちょくるのはやめてください。そんなんじゃないです」
「そう? おとなしいけど、可愛い子だし、真司くんとお似合いだと思うんだけどな。――いや、そうでもないか」
「どういう意味ですか」
「いまの真司くんのままじゃ、どんな女の子だって似合わないってこと」
「勝手なことを――」
鈴森が静かにドアを開けて入ってきた。いまの会話を立ち聞きされただろうか。いや、見た目以上に文芸部の部室のドアは厚いので話し声が漏れていることはないだろう。
さすがはオンボロでも学校の一部だ。防音対策はしっかりしている。
「残念だったね真司くん。また今度」
「なにを話してたんですか」
「真司くんがモテないのはどうしてかってことについてレクチャーしてたのよ。ま、問題は明らかだけどね」
「そうですか」
自分で聞いたわりにそっけない返事をよこして鈴森は鞄からノートパソコンを取り出した。あんなもの、いつの間に持ってきていたのだろう。授業中はさっぱり気づかなかった。
「べつに学校のパソコン室を使ってもいいんだけどね、いちいちデータを持って帰るのも面倒だし、やっぱり普段使い慣れてるものじゃないと作業がはかどらない気がするから自分で持ってきてもらったんだ。重たかったでしょ?」
驚いているおれに先輩が説明しつつ、鈴森をねぎらう。
「そうでもないです。新しいやつですし」
「ほんとだ、いいな。うらやましー」
先輩は海辺に流れ着いた正体不明の物体を調べるみたいに、鈴森の新型ノートパソコンを持ち上げたり叩いたり、撫でてみたりした。最近発売されたばかりの機種で床に落としたらまっぷたつに割れそうなくらい薄い。これなら学校に持参するのもたいした負担ではないだろう。
「これ、文芸部のためにわざわざ買ったの?」
「元から自分用のがあったから」
ずいぶんとリッチなことだ。
家族共有で旧型のパソコンを使っている身としては、ひがまずにいられない。
「いいないいなー。あたしも買い換えようかなー」
「先輩バイトしてましたっけ」
「してないよ。新人賞に応募して、その賞金で買うの。もしくは真司くんから巻き上げるかね」
「立派な夢ですね、頑張ってください」
「信じてないでしょ。賞に応募する気はまったくないけど、真司くんに対しては容赦しないからね。いざとなったらカナに頼んで弱みの千や二千はつかんでみせる」
「ほんとにやめてください。先生にチクりますよ」
「どうぞどうぞ。相打ち覚悟で秘密を暴露してあげる」
「鬼!」
「純情可憐な乙女に向かってそういう無粋な言葉を投げかけるからモテないのよ。もっとあたしに相応しい洗練された賞賛が欲しいわね」
昨日の放課後に鈴森と先輩が話していた内容を聞きに来ただけなのに、いつの間にかおれがモテないことを糾弾されている。別に彼女がいた経験のないわけではないし、女の子と仲良く喋ることだってできる。先輩に責められるほど悪くはない、と思う。
「そういう先輩だって彼氏いないじゃないですか」
「ねえ真司くん、あなたもよかったらパソコンを持ってきて一緒に部室で原稿を書いてみない。ここでなら行き詰まったときすぐ教えてあげられるし――教えてあげるっていうのも変な話か。アドバイスのひとつくらいはできると思うよ」
速攻で話題を逸らした。
これからは立花先輩に攻撃されたら彼氏のいないことを声高らかに主張してやろう。こちらも恋人がいないことは同じだが三年生と一年生とでは重みが違う。肉を切られて骨を断つ、というやつだ。
「そういえば、原稿は進んでる?」
「……いえ」
「ま、最初は難しいよね。誰だってそうだよ、心配ない」
「鈴森は初心者じゃないんですか」
「えーと……」
先輩は困ったように、黙々と準備を進めている鈴森に視線をやった。彼女は一言だけ「素人」と答えた。
明らかに素人ではなさそうな雰囲気だったが『猫缶』に投稿される作品を読めばおのずと実力は判明することだろう。もし素人だったら先輩の作品だけが異彩を放つし、実はものすごく上手かったりした場合はおれの作品が異形となる。
そう考えるとまた嫌になってきた。
本当におれなんかに小説が書けるのだろうか。どう考えても無理な気がした。
「真司くんも遊びに来なよ。書かなくてもいいからさ。部室の雰囲気も良くなるし」
果たしてそうだろうかという疑問は拭えなかったが、漠然とした不安がおれのなかで渦巻いているのも事実だった。このままじゃ『猫缶』に載せる小説なんて書けないのは明らかだったし、なにかきっかけがなければ現状を打開できそうにない。
だから、文芸部の部室に行くというのも悪くないように思えた。
約束を破るわけじゃなくて、たんに上手くいかないだけなのだ。それが小説を書くという高度な作業なのだからなおさらだ。
「鈴森さんも喜ぶよ、ね?」
同意を求められ、鈴森はかすかに頷いたように見えた。気のせいかもしれない。どちらにせよおれの心は決まっていた。
「気が向いたら行きます。パソコンは持ってこれないですけど」
「部室に未使用の原稿用紙が腐るほどあるから鉛筆だけあればいいよ。手書き原稿なんておしゃれじゃない、明治の文豪みたいで」
「面倒くさいです」
「そんなこといわない。さて、今日からはじめる?」
先輩は早くも黄ばんだ原稿用紙の束を取り出していたが、おれは丁重に断って帰宅することにした。明日から頑張ろう。何度決意したかわからない文句だが、今日はベッドでゆっくり本を読んでいたかった。
「なにかを決意するっていうのはいいことだよ。たとえそれが消去法だったとしても」
部室を出るとき、先輩が見透かしたようにいった。
おれは黙ってドアを閉めた。なぜだか、そこを離れた瞬間、心が軽くなった。