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 リビングでは母と姉貴がふたりして録画したドラマを鑑賞していたので、おれは自室にこもることにした。二階建ての階段をのぼる。狭い廊下で向きあうようにおれたち兄弟の部屋は配置されている。最低限のプライバシーは守られているのだろうが、物理的に近すぎるのが難点だった。

 部屋に入るなり制服を脱ぎ捨てジャージ姿に着替える。

 あまり堅苦しい格好をしていると息が詰まる。ワイシャツの第一ボタンまできっちりとめるほど優等生ではないが、それでも学校の制服は重たすぎる。おれはもっとラフな格好が好きなのだ。たとえば、サッカークラブのユニフォームみたいに。

 電池の切れかかっている携帯電話を充電器につなぎ『猫缶』を片手にベッドに寝転がる。

 自分から望んで読書をしようなどと思い立ったのはいつぶりだろう。テストのために国語の教科書に載せられた物語を読まなければいけないことはあったが、それ以外にはほんの何冊か世間で話題になった小説を買ったことがあるくらいの記憶しかない。

 それらはまあまあ面白かった。

 本棚に目をやると、並んでいるのは漫画の単行本ばかり。『猫缶』を読み終えたら、姉貴になにか貸してもらうことにしよう。ああ見えて姉貴は意外と本をよく読んでいる。いつもブックカバーをつけているのでジャンルはわからない。ひょっとしたら官能小説かもしれない。まさか弟に貸すことはないだろうが、万が一そういう類の本を押し付けられたとして、しかもそれが姉弟モノだったとしたらおれはどんな反応を示せばいいのだろう。

 そこまで考えて、バカらしくなってやめた。

 なにを姉に期待しているんだ。

 恋愛の詩なんて書いてると聞いたからだろうか。

 さすがの姉貴も家の外では多少マトモなふりをしているだろうし、恋のひとつやふたつくらいはしているだろう。だから急に姉という性別で考えられなくなっただけのはなしだ。一時的な症状で、問題ない。

「さて、読みますか」

 自分にいい聞かせるためにあえて言葉を口に出す。

 『猫缶』は街のあちこちにおいてある無料雑誌くらいの厚みしかない。無愛想なフォントで書かれた目次にはきっちり三人分のペンネームが記されている。

 立花先輩は『猫缶』を発行するために三人以上の寄稿が必要だといっていた。

 どうやっても頭数から逃げられそうにない。鈴森が参加してくれたとしても、あとひとり代役を見つけてこなくては。しかしおれの周りに誰一人として小説を書いてくれそうな友達はいないし、有望そうなのがいればすでに先輩が関心を寄せていることだろう。

 鈴森は先輩とふたりでなにを語っているのだろうか。

 あの無口そうな女子が、わざわざ頼んだのだから、重要なことなのだろう。うまい方向に転がっていればいいが、と願いながら『猫缶』の一ページ目をながめる。

 どうやら冒頭は去年の三年生だった人のものらしい。

 何編もの短い詩がイラスト付きで可愛く彩られている。すべて手書きのもので、あちこちにハートマークや天使が描かれており、女の子らしさ全開だった。

 内容はほとんどが甘ったるいくらいの恋について。

 読んでいるこっちが恥ずかしくなるほどの、メルヘンチックで少女漫画な世界観。正直、声に出したら悶死しそうだ。

 スペースを大胆にとっているのですぐに読み終わる。字と絵の割合が逆転した少女漫画と形容すればいいだろうか。顔が赤くなるくらいベタな感情を綴っているだけなのに、なぜかおれはその詩を嫌いではないみたいだった。

 その次が先輩の小説だった。

 短編小説がふたつ。

 最初のはコメディチックなもので、少年と少女が漫才みたいなかけあいをしながら日常で起こった些細な謎を解決するというストーリーだった。文量こそ多くはないが、よくまとまっていて面白い。台詞が文章のほとんどを占めているので読みやすかったのも、おれにとっては好都合だった。

 先輩と姉貴の会話をそのまま文字におこしたらこんな感じになるのだろうか、と思う。きっとイメージはあったに違いない。そう考えると、おれは人生ではじめて、文章の向こう側に作者がいることを体感した気がした。

 いつもは作家の悲劇ったらしい経歴を眺めているだけでなんの感慨もわいてこなかったので、妙に胸が高鳴った。

 そのままの勢いで次の作品にうつる。

 今度は幻想的な世界のなかで少女が失ったものを探し彷徨っていた。途中で喋る動物と邂逅し、植物に諭され、虫と戯れ、最後に少年と出会う。少女は少年とのやりとりのなかでこう訊く。

「ねえ、わたしの失ったものってなんだったかしら」

「失ったものは返ってこないさ」と少年はいう。「新しく創るか、君の思い出のなかで繰り返すかだけだよ」

「じゃあ、わたしはどうすればいいの?」

「君はまだなにも失ってはいない。ただ忘れかけてるだけなんだ。だから、そう、目を閉じて」

「うん」

「きっと思い出せる。きみが諦めさえしなければ」

「うん」

 そういって少女は微笑んだ。小説はそこで終わっていた。

 このやりとりがなにを意味しているのか、おれには理解することができなかった。たぶんファンタジーな雰囲気を楽しむための意味深長な会話なのだろう。それにどのような意図が込めてあるのか知る方法は先輩に直接聞いて見るほかあるまい。

 もちろん、そんなことはしないけど。

 物書きにとって自分の書いた小説の内容を問われることほど答えたくない質問もないだろうというのはおれにも想像がつく。マジシャンにトリックを訊くくらい無粋だ。

 おれは考えるのを放棄して、幽霊部員が執筆したらしいごく短い文章を読んだ。小説というより日記みたいな内容だった。きっとあまり乗り気ではなかったのだろう。ほんの二十行くらいのなかに誤字が三つも混じっている。

 最後に、三人のあとがきがまとめて載せられていた。

 どれも簡単な現況報告と卒業してしまう先輩に対してのメッセージだけで、作品の解説はない。

 裏表紙の可愛らしい猫の絵を眺めて、おれは『猫缶』を本棚に突っ込んだ。もう一回読みなおすことはないだろう、たぶん。そのくらい丹念に味わった。

 プロの作品とまるで違う世界が広がっていて、おれはその感触に浸ったまま現実世界に戻ってきた。

 だから本を閉じても鮮明に思い出せる。頭のなかをふっと思い返した一節がよぎっていく。奇妙な、経験したことのない感覚だった。

「……なんなんだよ」

 声に出してみることで、自分であることを再確認する。

 これほどまでに動揺している自分が滑稽だった。なにか、確固たるものが欲しくなって適当な漫画を引っ張りだした。タイトルも、台詞も、絵柄も変わっていないはずなのに、いつものようにはストーリーに没頭できない。

 恐ろしく気持ちが悪かった。

 身体のどこかに毛虫がついているのに、それがどこだかわからないみたいに。

 おれはベッドの下にタオルでくるんで保管しているサッカーボールを取り出し、そのなめらかな表面をなでた。姉貴や母親に見つからないよう隠してあるのだが、はたしてどのくらい効果的なのかわからない。

 彼女たちが青少年のベッドの下を覗くという良識に反するようなことをしなければバレることはないと思うがもちろんその保証もない。

 立ち上がってボールを足先で転がす。

 フローリングの上なら簡単だ。これが砂埃にまみれたグラウンドの上でやると段違いに難しい。試合中ならなおさらだ。もっとも、その機会には恵まれなかったわけだけど。

 つま先でボールを浮かせ、リフティングを試みる。足の甲に当たるボールは冷たく、すぐあちこちへ逃げていってしまう。狭い部屋のなかでリフティングを続けるのは無理だと熟知しているのに、おれは定期的にボールと戯れずにはいられなかった。

 気づくと、こうしてサッカーボールで遊んでいる。

 たとえそれが深夜であっても早朝であっても、床に落とすまではやめられない。ふとした拍子に当たりどころが悪くなり、ボールは派手な音を立てておれの足を離れた。

 もう、やめておこう。

 あまりうるさくすると階下の女性陣にどやされる。

 取り出したときと同じようにタオルにくるんだ状態でベッドの下、奥深くに収納する。こうすれば自然に転がりでてくることもない。

 少しだけ気分が落ち着いた。

 これからどうしようか、と思う。だったら小説書きなよ、と頭の中で先輩がいった。それもいいかもしれない。けど、おれは自分の部屋を出てワープロを打つためでなく、姉貴に本を借りるため階下に向かった。

 ちょうどテレビもキリが良い所だったらしくすんなりとオススメの一冊を貸してくれた。裏面のあらすじを見るといたって健全なファンタジー小説のようだった。

「小難しい話じゃないからあんたでもスラスラ読めると思う。終わったら返してね、あと漫画の新刊もつけといて。よろしく」

「がめついな」

「お姉さまが親切にも貸本屋をしてあげようっていうんだから感謝しなさいよ。あんまりに本を読まない弟だから馬鹿に育ったんじゃないかと心配してたけど、まあ今から挽回しようという心意気やよし」

「べつに頭良くなるわけじゃねーだろ」

「ま、その通りなんだけどね。本ごときで賢くなれるならいくらでも読みますって。それより、あんたちゃんとカナとの約束守ってんの?」

「まだ」

「あっそ。頑張んなよ」

「姉貴って昔、文芸部で遊んでたんだってな」

「よく知ってんね」

「立花先輩から聞いた。で、『猫缶』にも投稿してたんだろ」

「……あんた、まさか読んでないでしょうね」

「さあね。立花先輩には秘密にしとけっていわれたけど」

「あいつ、明日会ったら叩き潰してやる」

「どうせおれにまで被害が及ぶんだからやめてくれよ」

「うっさい。だいたいあんたが黙ってればいい話だったでしょうが」

「意外だなって思ったんだよ」とおれは弁解した。「姉貴って女の子らしさゼロだし。そういう一面もあるんだって驚いた」

「女子はね、みんな多かれ少なかれ乙女なのよ」

「姉貴も?」

「わたしも!」

「へえ」

 太ももに鋭いケリを入れられて、おれは姉貴の部屋から追い出された。身内に対してはこれだから困る。もっと思いやりを持って弟に接してほしいものだ。

 そんな姉貴だとしても家の外では平気な顔して乙女のふりをしているんだろう。駅のプラットホームで落としたハンカチを拾ってもらった青年に対して顔を赤らめるみたいに。実にアホらしい。だが、世間様はそういう表面的な姉貴を本物だと思い込むのだから悲しい話だ。

 見た目と中身は違う。

 当たり前のようにも聞こえるかもしれないが、小説もそういうことなのだ、たぶん。

 おれはすぐ向かいの自室に戻ると、姉貴にもらった小説のページを開いた。半分も読み終わる頃にはすっかり日が暮れていた。

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