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 マイナス要素はいつだって突然に飛び込んでくる。

 あるときは通りがかりのサラリーマンの鞄がみぞおちにクリーン・ヒットしたり、またあるときは凶器としか思えない細くて高いヒールを履いた女性に足を踏みつけられたり、満員電車で女装したおっさんに股間を押し付けられたり、人為的な不幸は前触れなく襲いかかってくるものだ。

 その日は朝からぐずぐずと雨が降っていた。

 傘をさすのも億劫になるくらいの小雨が教室の窓を濡らす。空は墨でもこぼしたみたいに黒い雲がたちこめており、夜から大雨になるだろうという天気予報を裏付けていた。

 いつもは眠くなるくらいの温もりを与えてくれる太陽は片鱗もなく、五月には珍しく冬みたいな寒さだった。

 久々に引っ張りだしてきた長袖のセーターはやつれてシワだらけだ。

 一日の締めくくりである数学の授業を終えて、雨がひどくならないうちに帰ろうと支度をしているところに暴風雨がやってきた。おれはもっと早く行動すべきだったと瞬時に後悔した。

 教室を一周ぐるりと見回して、その目がおれの姿を捉えるまで数秒とかからなかっただろう。

 逃げ出そうとした一歩目が遅かった。部活のコーチにもよく注意されたことだ。出足が悪いのはまだ直っていないらしい。

「見つけたぞ、そこを動くな!」

 機動隊さながらに突入してくる先輩は巧みにおれの退路を断っていて、とても振り切れそうになかった。それに一年生の教室に三年の先輩がやってくるという奇異な光景をこれ以上面倒くさくさせないためにも、おれは大人しく彼女に捕まることにした。

「なんですかいったい」

 ぶっきらぼうな口調で尋ねる。立花先輩と一緒にいてろくな目にあった覚えがない。おれにとっては目の前を横切る黒猫みたいな存在だ。

 そのくせやたらと出没するので厄介の塊みたいな先輩だ。腐れ縁というのかもしれない。縁が切れるならすぐにでも切断したい。

「カナから聞いたんだけど真司くん部活入ってないんだって? 仮入部とかもしてないの?」

 勢い込んでまくし立てられる。

 おれは顔を背けながら、

「してないですよ」

 と、できるだけ無感情に聞こえるよう注意していった。

「これからどこかに入部するつもりは?」

「ないです」

「その返事が聞きたかったんだよ」

 立花先輩は実に嬉しそうな表情で何度も頷いていた。

 彼女が用件を切り出す前から、おれはすでに薄々事情を感づいていた。正直なところ全く興味もないし提案を受け入れるつもりもない。先輩を期待させるだけ酷というものだ。だから早々に謝ることにした。それが一番の解決策のように思えた。

「悪いんですけど、おれ文芸部に入るつもりはありませんから」

 そういって先輩の横をすり抜ける。他人が失望する様子はもう見たくない。それはいつだっておれの心臓を無遠慮に締め付けて、気分を悪くさせる。

 だが、帰ろうとするおれの髪の毛を背後から思い切り引っ張られては無視するわけにいかなかった。

 非難の意味合いをこめて睨みつける。ちょっとは迫力が伝わっているといいのだけど。

「痛いですよ」

「他人の話を聞く前から勝手にいなくなろうとするからでしょ。こういう不良少年には手荒く指導しないと。あたしだって君のワックスで手がべたついちゃったからお互い様ってところね」

「余計なお節介です」

「まったく可愛げないなあ。昔はこんな小生意気な真司くんじゃなかったんだけどなあ、あの純粋さはどこに消えちゃったんだろう」

 立花先輩はポケットから携帯電話を取り出して愛おしそうに画面を撫でた。

「なにやってるんですか」

「んふふ、これカナからもらった写真なんだ。いいでしょー」

 見ると、スマートフォンの大画面におれの小学生くらいの時に撮ったのだろう写真が表示されていた。黒いランドセルを背負って日本代表の小さなユニフォームを着ている。

 あの頃はよく青いユニフォームを着て学校に通っていたものだ。学校に行く格好じゃないと何度も怒られたけど、四年生になるくらいまでは続けていた記憶がある。いつ頃やめたのかは覚えていない。きっとサイズが合わなくなったのと、周囲の視線が気になりだす年齢になったからだろう。

 そんな小恥ずかしい思い出の一片を流出させた罪は重い。家に戻ったらきつく叱っておこう。

「姉貴から変なモノを入手するのはやめてください。消しますよ」

「ダメだよ。真司くんはいつまでも無垢なままの少年でいてくれないと困るんだから」

「おれだって成長しますから」

 自分で口にしながらおかしくなった。

 成長する? 本当にそうだろうか。重ねたのは無駄な時間ばかりだ。

「身長と理屈ばっかりは育ったみたいだけど、あたし真司くんは親切なままの君だと信じてるんだよね。カナもいってたよ、ちょっとスれてるけど根はちゃんとした子だって」

「冗談よしてください。おれはそんなんじゃないです」

「お世辞でいってるわけじゃないよ」と先輩はいった。「場所を変えよう。ジュースおごってあげるよ、なにがいい?」

 おれたちは連れ立って教室を後にし、体育館の横に設置された自動販売機を目指して歩いた。

 学校のなかなら男女が一緒にいてもとりわけ目立つような光景ではない。それにほとんどの生徒はすでに帰るか部活動に勤しんでいるかだったので、廊下にほとんど人影はなかった。

 教室の中から吹奏楽部の練習する音が聞こえてくる。まだ一曲を合わせるというような段階ではないらしく、統一性のない退屈な音階だけが吹き鳴らされていた。

「……サッカーはもうやらないの?」

 さきほどまでとは違い、さりげない口調で訊いてくる。おれに気を遣ってのことだろう。もう飽き飽きするくらい質問された内容なのに。

 そして何度となく繰り返してきた答えを返す。

「おれ才能ないみたいなんで」

「そっか」

 みんな同じ反応だ。

 否定もしなければ肯定もしない曖昧な相槌ばかり。もっと頑張ってみたら、なんて安易な言葉をかけられないだけマシなんだろう。おれは努力した結果なにも得られなかった。

 そう、才能がなかったんだ。

「スポーツって大変だよね。一番以外は認めてくれないんだから」

 軽音楽部の連中がどこかで聞いたことのあるような歌を真似している教室の前を通り過ぎるとき、先輩がなぐさめるみたいに言葉をかけた。

「なんだってそうですよ。バンドだってすべてが評価されるわけじゃない。結局はコンテストがあって、一番うまいやつだけが日の目を見ることになる。あとに残るのは抜け殻みたいなものだけです」

「そんなことない。百のグループに百の個性があって、それを少しでも好きだと感じてくれる人がいるなら、それでいいんだよ」

「世の中そんくらい簡単に回ってたらいいんですけどね」

「なにも否定ばっかりじゃないよ。真司くんが気づいてないだけで」

 それからしばらく無言で歩いた。

 立花先輩がいつになく真剣な表情をしていたので、ひょっとしたら文芸部の勧誘の話ではないのだろうかとも考えた。わざわざ部活の話題を振ってきたのだから間違い無く入部をすすめるつもりだろうが百に一つくらいは他の頼みがあるのかもしれない。

 自販機に連れてきておいてジュース代を支払わせるとか。

 おれの杞憂も虚しく、先輩は注文した通りペプシをおごってくれた。現役時には炭酸飲料の摂取が禁止されていた反動からか、引退してからは毎日のように飲んでいる。

 骨がすっかり溶けてしまう日も近いだろう。できることならクラゲにでも生まれ変わりたいものだ。

「――あたしが文芸部に入ってるのは知ってるよね」

 微糖、と書かれた缶コーヒーをちびちび飲みながら先輩は切り出した。

 ほらみたことか、とおれは思う。どうせ部員が少ないから入部して欲しいとかだろう。人のことを頭数くらいにしか考えていない。

「ちょうど先輩たちが卒業しちゃってさ、ひとりだけいた後輩も幽霊部員になってて、まだ入部届を出してない。ほとんどあたし個人で活動してるような状況なんだ」

「先輩、おれ――」

「最後まで聞いてもらえるかな。真剣なお願いなの」

 有無をいわさぬ口調で続ける。おれはペプシを一口含んだ。甘ったるい炭酸の泡が喉に流れ込む。

 いつになく緊張した空気だった。

「ひとりだけの部活っていうのは寂しいものだよ。部室に行っても誰も待っていちゃくれないし、誰とも喋れない。顧問の先生はめったに部室なんてこないし、運動部みたいにコーチがいるわけでもない。ひとりでワープロの前に座ってカチカチとキーボードを叩くだけ。どこの独身OLだよって感じね。でも、それ以上に困ったことがあるんだ」

 先輩は鞄から薄い冊子を取り出した。

 あまりにページ数が少ないのでA4サイズのパンフレットかと勘違いしてしまいそうだ。表紙には『猫缶』と手描きの文字が踊っている。題字の下には、明治の文豪みたいなおっさんが何やら思案している絵。

 手作り感満載の冊子を、先輩は部誌だと説明した。

「こんなちゃっちい部誌だけど、歴代の先輩たちが絶やすことなく続けてきた、大事なものなの。これは去年のやつ。あげるね」

 押し付けられるように手渡された紙の束をまじまじと眺める。

 文化祭やなんやで配っていたものなのだろう。ページの端が折れ曲がっていた。

「どうして『猫缶』なんですか?」

「夏目漱石にあやかってね。『吾輩は猫である。名前はまだ無い』って知ってるでしょ」

 文学に疎いおれでもその一節だけは耳にしたことがある。有名な書き出しだけはしっているが、中身はもちろん読んだこともなかった。

「文字書きはみんな猫だって先輩がよくいってたよ。気まぐれで、自分勝手で、でもそうやって生きてても愛されるんだって」

「いいですね。気楽で」

「気楽にやろうと思えばいくらでも手を抜ける。高みを目指そうとすれば果てしなく遠い。なにかを創るってそういうことだよ」

「先輩も書いてるんですか」

「いま渡した『猫缶』に載せられているのはほとんどあたしの作品。先輩は詩が専門だったから。それに幽霊部員の後輩も一応書いてくれてるけど、一分くらいで読み終わる量だから、あんまりページ数はないかな」

「へえ……」

 パラパラと冊子をめくってみる。

 冒頭に、もう卒業してしまった先輩の詩らしきものが何編か詰め込まれており、それに続いてほんの見開き程度の短い小説。残り全部が立花先輩のものということだろう。

 なんとも侘しい部誌だった。

「……こういうのって他人に読ませるの恥ずかしくないんですか。おれだったら、自分の下手くそな作品なんかを晒したくはないな」

「そりゃ、いつだって恥ずかしいよ。どんなに推敲を重ねたところで最高の作品が出来上がるわけではないし、あとになって読み返してみると拙い表現もたくさんあって修正したくなる。プロの小説と比べはじめたらもう悲劇ね。書くのが嫌になるくらい」

「ならどうして続けるんですか。止めてしまえば楽なのに」

「好きだからだよ」おれの問いに、先輩はいとも簡単に答えた。「好きだから、書いていようって思える。どんなに途中が辛くても、自分で満足できる一瞬があるから。ほんの一行だけでも、いいなと感じられる文章が書ければそれで幸せな一日になる。面白いって感想を貰えたら一週間は機嫌が良くなるかしら。真司くんだって試合で勝てば嬉しいでしょ」

「それはまあ、そうですけど――」

「小説っていうのは無限の肯定と否定を秘めているものなの」

 と、先輩はいった。

「どんな人間でも、どんなにつまらない小説でも、書き上げればそれだけで生み出した価値がある。もちろんその作品を高めようと思えばキリがない。上質なモノを目指すのに限界はないから。それが、楽しい」

「…………」

 小雨が地面を叩く音が、静かに空間をすべっていた。

 立花先輩がこんな真面目な表情をしているのを目にするのは初めてだったし、もちろん小説について熱く語られるのも初めてだった。おれはサッカーについてこんな風に身を焦がして訴えることができるだろうかと思った。たとえばマンチェスター・ユナイテッドよりもアーセナルのほうが好きだとか、フォワードにしか分からない得点の雰囲気とか。

 きっと無理だ。

 少なくとも、いまのおれには不可能に感じた。

「と、まあ、魅力はたくさんあるわけ」

 テンションが戻ったのか立花先輩は小恥ずかしそうに咳払いをした。

「薄々理解してるかもしれないけど真司くんに頼みたいことっていうのは文芸部に入部してもらうことじゃない。『猫缶』に出すための作品を書いてもらいたいんだ。ほんの簡単なやつでいいから」

 お願い、と両手をあわせて頭を下げる立花先輩。なぜだかそのとき、つむじが見えるなあなんて考えていた。おれが小説を書くというイメージができていなすぎて脳がうまくイメージを結べなかったのだろう。

 年に一冊も読書をすればいい方という人生で、どうやったら小説を執筆するという方向に転ぶものだろうか。

「無理ですよ。悪いんですけど、他の人に頼んでください」

「はじめるのなんて簡単だよ。ほら、いまバイトも部活もやってないならさ、いい暇つぶしになるでしょ。家でゲームばっかりだってカナに聞いたよ」

「小説を書くなんてハードルが高すぎるんですよ。それにおれの下手くそな作品を公開なんて絶対にしたくないですし」

「ペンネームを使えば誰が書いたなんてバレないから。なんなら学年も伏せてていいよ。とにかく真司くんの小説だってことはバレないようにする」

「そんなこといわれても……」

「ペプシもおごってあげたしさ、ほら」

「そういう目論見だったんですか」

「……なんでもいいんだよ、パクリじゃなきゃ。なんならそう、童話とかでも」

 なんとか誤魔化そうとする立花先輩には申し訳ないが、おれなんかに小説の才能がないのは明らかだ。そういうのは本をたくさん読んで、それでも飽き足りなくなった連中がやればいい。

 ひとり、ちょうど良さそうな女子の顔が思い浮かぶ。

 彼女を代わりに推薦しておけば問題ないだろう。おとなしそうな正確だから先輩からこの調子で頼み込まれれば断りきれるはずがないという打算もある。意外と小説を書いてるかもしれないし。

「おれ、いい感じに本好きのやつ知ってますよ」

「ほんと? 誰?」

 目を輝かせて食いついてくる。おれは意気揚々と隣の席になったばかりの生徒の名を挙げた。

「うちのクラスの鈴森ってやつなんですけど、たぶん頼めば書いてくれますよ。これで一件落着ですね」

「あんたは神様だ!」

 先輩が拝み倒してくるので、胸を張って応じてやった。これでペプシの代金はチャラというところだ。

 最初からおれなんかじゃなく彼女に頼んでおけばよかったのだ。そうすれば面倒なおもいをせずに済んだ。

「これであとは真司くんさえオーケーしてくれれば完璧なんだけど」

「はい?」

「部誌には最低三人の寄稿が必要なんだよね。とりあえず真司くんを確保してからもう一人探すつもりだったけど、おかげで助かったわ。ありがとう」

「ちょっと待って下さい。去年のやつは――」

「あれは詩も含まれてるからセーフ。ギリギリ三人だったけどね」

「……騙しましたね」

「勝手に勘違いしたのはそっちでしょ。ほらほら、イエスっていっちゃいなよ。男らしくないよ」

「お断りします」

 絶対に拒否する姿勢を示すため、おれはそっぽを向いた。横で盛大にため息をつく立花先輩。こっちが嘆息したいくらいだ。

「仕方ない。この手段は使いたくなかったんだけど」

 非常に物騒なことを呟きながらスマートフォンを取り出すと、どこかへ電話をかけはじめた。おれの背中を嫌な汗が伝っていくのを感じる。

 おれが立花先輩を苦手とするのは本人の性格だけが原因だけではない。単体なら今日みたいな厄介はあれどさほどの脅威にはならないのだ。それが姉貴とタッグを組むことでとてつもなく面倒な事態を連れ込んでくるようになる。

 洗剤と漂白剤を混ぜると致死性のガスが発生するみたいに、二人が一緒に絡んでロクな目にあった試しがない。

 だがおれの予想は無情にも的確に未来を射抜いていた。

「あ、もしもしカナ? うん。そう、計画通りやっちゃって」

「やるって、なにを?」

 おれの質問に、先輩は満面の笑みをこぼした。

「真司くんの部屋探索。いまどきエッチな本とか隠してないだろうけど、いろいろ見られたくないものとかもあるんじゃないかなー。もしもし、え、ホントに? そんなもの置いてあるの? うわー真司くん引くわー」

「分かりました! 許してください! 書きますから、どうか部屋から姉を退散させてください!」

 部屋には見られてはいけないものがゴロゴロ転がっている。特に姉貴には絶対知られてはいけないものがたくさんあるのだ。それを発見された日には、もう帰る家がなくなってしまう。

「約束する?」

「します!」

 先輩は名残惜しそうに通話を切って、携帯電話をしまった。だが、姉貴がおとなしく部屋から去ったとは到底思えない。おれは一刻も早く帰宅したくてたまらなかった。

「じゃ、よろしくね。締め切りまでにはまだあるから」

 それと、鈴森に先輩を紹介するという約束を取り付けて、彼女は上機嫌で教室に戻っていった。

 おれは大急ぎで上履きを履き替えると、傘もささずに家路を急いだ。なぜだか『走れメロス』が教科書に載せられていたのを思い出した。待ってる友だちなんていないけど。

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