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物置とさほど変わらない部室には相変わらず三人分の席が用意されていた。そのなかのひとつに座らされながら、先輩がドアの鍵を閉める音が聞こえた。もとから逃げ出すつもりなんてないのに。きっちり、男らしく、断りを入れるだけのことだ。
そもそも最初に約束したのが間違いだった。
部屋に未練たらしくおいてあるサッカーボールを見られることくらい無視すべきだったのだ。もちろんそれ以外に先輩や姉貴が期待するような恥ずかしいものは存在していないし、部屋を荒らされても問題ない。散らかった部屋がもうすこし汚くなるだけのことだ。
ましてや、姉のお節介でおれを矯正しようとしていたなんて。
立花先輩もやっかいな頼まれごとをしてくれたものだ。
「……真司くん」
先輩は怒っているような、悲しんでいるような、どちらともつかない表情で口を開いた。おれは目を伏せる。責任があるのは、たしかにおれなのだ。
「カナから聞いたよ。また喧嘩したんだって?」
「姉貴のやつがうるさくしてくるからです。別に珍しいことじゃないし、心配してくれなくて平気ですよ」
「あなたたち姉弟に関してはね。あたしが気にかけてるのは――」
「おれですか」
ため息をつきながら先輩を睨みつける。
どうして誰も彼も放っておいてくれないんだろう。おれの生きたいように生きさせてくれればいいのに。
「前にもいったけど小説を書いてくれないから不安がってるわけじゃない。このままじゃ真司くんがどこにも進めないのを心配してるだけ」
「おれ今年の夏休みはバイトしようと思ってるんです。そのお金で、また新しいことでもはじめます」
「お金なんて、そんなもの、欲しくないくせに」
鈴森がわかったような口をきいた。
お金は大切だ。それがなきゃ、生きていくことも、楽しむこともできない。ふと旅行をしたいと思った。ひと夏働けば相当な額がたまるだろう。それを使って一週間ばかり旅にでるというのは、ひどく魅力的に聞こえた。
「真司くんが本当にほしいもの――やりたいことは、サッカーだよ。まだ諦めていないからこそ前に進むのを怖がってる。才能がないなんて言い訳してサッカーに裏切られるのが怖くて、それでも好きなんでしょ。違う?」
「……サッカーは、好きですよ」
そう、嫌いになれるはずもない。
子供の頃から大好きで没頭してきたものを急に嫌いになれやしない。サッカーのほうがおれを嫌ってるだけだ。永遠の片思いは苦しすぎる。
「だったら続ければいいじゃない。夏休みに入る前なら、まだ入部しても間に合うよ。まだ手遅れじゃない。自分の気持ちに素直になるべきだと思う」
「先輩にはわからないんですよ」おれはいった。「どれだけ努力しても結果が出ない辛さが。小さな頃からボールを蹴ってるのに、どれだけ練習しても上手くならないもどかしさが。三年間でたったの数回しか試合に出してもらえなくて、それも後半ギリギリで、ボール触れたのなんてたった五回なんですよ。五回。後輩たちが、才能ある奴は一年生からレギュラーなのに、おれは……」
言葉に詰まる。
他人に対して素直に自分の悔しさを吐露するのははじめてだった。感情の高ぶりに呼応するように目頭が熱くなる。いまだけは泣いても構わないと思えた。理解のない先輩が大嫌いだった。
「おれだってあいつらと同じように練習してた。それなのにキックはいつもそれるし、トラップは思ったところに収まらないし、シュートは枠に飛ばない。才能がないんですよ。ドリブルでスイスイ抜ける奴らとは違うんです。そんなおれがサッカーを続けたってしかたないじゃないですか。高校の三年間まで無駄にしたくない」
「真司くんがサッカーに費やした月日は無駄じゃないと思うよ」
「無駄ですよ。スポーツは試合に出て、勝たなくちゃ意味がないんです。小説みたいに誰でも書けて、オンリーワンになれさえすればいいなんて、そういう甘い世界じゃない。試合にも出させてもらえなくて、ベンチを温めてるだけのクズになんの価値があるっていうんですか」
いわゆるベンチウォーマーにさえなれなかった。
引退試合にはお情けでベンチに入れてもらえはしたが、もちろん拮抗している試合に出場させてもらえるほど甘くはない。おれを出すということは監督が試合を諦めているのと同じだからだ。
PKにまでもつれた最後の試合は、結局あっけない幕切れだった。おれだったら、あそこで外しはしなかった。
「でも、頑張ったんでしょ。それだけでも意味はあったはずだよ」
「だからっ!」
おれは声を荒らげ机を叩く。先輩がびくっと震えた。
「それじゃ……意味ないんですよ」
「――だったら」鈴森が口を挟んだ。暗くなりきった雰囲気のなか、ひとりだけ平静と変わらない表情をしている。きっと、おれに対する興味なんて毛虫ほども抱いていないのだろう。「井原くんはどうすれば満足だった? 試合に出て活躍して、みんなからすごいって賞賛されれば納得するの?」
「ああそうだよ。試合に出て、ボールに触って、この脚でゴールを決められさえすれば、おれは満足だよ。それさえ出来なかったから、だからおれは――」
「だったら、やればいい」
「ふざけんな、どうやって」
「私と先輩と井原くんとでサッカーをする。それでいい」
「馬鹿にすんなよ。サッカーは十一人でやるスポーツなんだよ、三人でなにが出来るっていうんだ」
脳裏に、最後の試合の光景が浮かび上がってくる。
何度振り払っても、油性マジックで落書きされたみたいに消えようとしない記憶。自分が蹴ったわけでもないのに後悔ばかりが募っていくPK。
もう、どうしようもないことなのに、往生際が悪いものだ。
鈴森もふざけたことばかりぬかしているし、スポーツなんて一度もやったことがないのだろう。だから好き勝手に無責任なことがいえるのだ。いくら小説を書いたところで理解できるのは自分の世界に住んでいるキャラクターたちの心情であって、現実に眼前にいる人間の気持はさっぱり分からない。
読書で心が豊かになるなんて嘘っぱちだ。
所詮は紙に書かれたことしか受け付けない。
「真司くん、たしか、最後の試合ってPK戦で負けたんだよね」
「そうですよ」
先輩までもがおれの内心を察したかのように追撃する。もし心が見えるのなら、おれの心臓はきっと串刺しになって血だらけだ。
「そこだけ、やろう。あたしたち三人だけでも」
「はい?」
「サッカーは詳しくないけどPKくらいなら知ってる。キーパーと審判と、キッカーがいればいいんだよね」
「それはそうですけど」
「キッカーは真司くん。あたしがキーパーやる。鈴森さんは審判をお願い」
「ちょっと待って下さい、外は土砂降りですよ」
「このくらいの雨なら、サッカー部もいないだろうし、ちょうどいいね。ボールはある?」
勝手に話は進められていく。鈴森は否定も肯定もしないので、このままいけば先輩に連れて行かれるだろう。
まだ日暮れまでには時間があるというのに外は夜みたいに暗くなっており、地面に八つ当たりしているみたいな量の雨がグラウンドを叩いている。たしかにそこに人影はないし、ゴールも空いている。PKの真似事をするだけなら、十分にできそうだった。
「先輩もへんなことばっかりいってないで……」
「悪いけど、あたしは本気だよ」と先輩はいった。「さ、やろう。ボールさえあれば、あとはなんとでもなる」
「ボールなら、うちの教室の後ろに転がってます」
鈴森が報告する。これで、すべては決まった。
「オッケー。すぐグラウンドに行こうか」
雨の音がいっそう強くなった。
先輩と鈴森はさっさとボールを拾いに部室を出てしまった。ほこり臭い物置に残されたおれはしばらく机の木目を数えていたが、激しくなる雨足にせかされるように外へ出た。教室の前では、すでにふたりの文芸部員が泥だらけのボールを胸に抱いて、待ち構えていた。




